綱吉〜吉宗の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 04:38 UTC 版)
江戸初期、富籤の流行が過熱したため1692年(元禄5年)に徳川綱吉は江戸市中での富突講や二百人講を禁止した。 募金を目的とする富籤は江戸時代初期の寛永頃、既に京都で行われていたらしく、1692年(元禄5年)5月の町触にはその禁止がある(『正宝事録』八には、「元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判」とある)。 ところが元禄期以降、幕府財政は窮乏したため、寺社にかぎり修復費用調達のための富くじの発売を許可することとし、綱吉は江戸・谷中の感應寺の銭富を初めて公認した(御免富)。 1730年(享保15年)、徳川吉宗は京都・仁和寺の宅館修復のため、江戸・音羽の護国寺での富突の実施を許可。 以降、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行された。このため、許可は寺社奉行に出願することとなり、抽籤の際には与力が立ち会った。 一方でこの頃から隠富や影富と呼ばれる幕府非公認の富籤も流行することとなった。
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