綱吉と能
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:08 UTC 版)
家康以来、代々の将軍は能を愛好してきたが、綱吉はその中でも「能狂」と言われるほどの執着を示した。綱吉の能狂の特徴として、能楽研究者の表章は以下の5点を挙げる。 自ら能を舞い、それを人に見せることを好んだこと。 側近・諸大名に能を舞うことを強制したこと。 能役者の追放・登用、また流派を超えての移籍などを繰り返したこと。 能役者を士分に取り立てたこと。 稀曲・珍曲を見ることを好んで、廃曲となっていたものをも多く復活させたこと。 まず1については、将軍就任後間もない延宝9年(1681年)2月、桂昌院のために催した能で、自ら「船弁慶」「猩々」を舞うなど、早い時期から見られる傾向である。これは年を追うごとに頻度を増し、江戸城内のみならず、寵臣邸や寺社へ赴く際には、儒学の講義に続いて綱吉が能を舞うことが常であり、元禄10年(1687年)には71番の能、150番以上の舞囃子を舞っている。諸大名や公家もまた、追従としてその拙い能を所望せねばならなかった。 2についても、将軍就任当初から小姓に能を舞わせるなどしていたが、後には側近ばかりか大大名にもこれを強制した。貞享3年(1686年)4月、徳川綱教・前田綱紀・徳川光友・徳川綱豊・徳川光貞・徳川光圀・徳川綱誠・徳川綱條による能が催されているのがその好例であるが、この場合も彼らは直前になって綱吉の命を受け、慌てて稽古をせねばならなかった。綱吉が宝生流を好んだため、諸大名も宝生流を取り立てたことが、現在まで加賀などで宝生流が盛んな一因となった。 3の例となるのは、宝生大夫による「道成寺」の小鼓を打つことを命じられた小鼓観世家当主・観世新九郎が、流派が違うことを理由にこれを拒否したことに対し、天和3年(1683年)2月に新九郎父子を追放、翌3月、宝生座に移籍させ姓まで宝生に変えさせて呼び戻した一件である。他にも館林時代のお抱え役者の登用、さらに貞享3年には喜多流三世・喜多七太夫宗能を追放し、喜多座を解体するという「能界を震撼させる大事件」を起こしている(翌年赦免)。 4については、『徳川実紀』にも批判する文章が載せられている。士分に取り立てられた役者は、特に貞享以後はこのために新設された廊下番のポストにつけられて表向き能役者を廃業し、綱吉が城中で私的に催す能に出演させられた。当初は五座以外の役者を士分としていたが、次第に諸座の大夫・家元クラスがその対象となっていった。これを断ればやはり追放が待っており、当主・後継者を奪われた各家は大きく混乱した。特に大夫を2度にわたって取り立てられた喜多座では、分家の権左衛門家が断絶を余儀無くされている。登用された役者たちは、三世喜多七太夫宗能改め中条直景のように900石取りにまで出世するものもいたが、五世喜多七太夫恒能のように綱吉の男色の相手を断り切腹させられるなど、多くは過酷な運命をたどることとなった。 5であるが、綱吉は日頃演じられない珍しい曲を観ることを好み、廃絶されていた古曲を積極的に復曲させて上演させた。それまで長く演じられなかったにもかかわらず、綱吉の時代に復活した曲は実に41番にも及ぶ。もっともこれも、6日ほど前に急に命じられ、慌てて間に合わせたものがほとんどであったが、そのうち20番は現在まで各流派で演じられており、中には「雨月」「大原御幸」「蝉丸」など現在でも高く評価されている曲が含まれている。同様の傾向のあった家宣による復曲と合わせ、「怪我の功名」ながら、これは後世に残る業績となっている。
※この「綱吉と能」の解説は、「徳川綱吉」の解説の一部です。
「綱吉と能」を含む「徳川綱吉」の記事については、「徳川綱吉」の概要を参照ください。
- 綱吉と能のページへのリンク