綱吉治世頃の天王祭
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「館林の牛頭天王信仰」の記事における「綱吉治世頃の天王祭」の解説
宝永5年(1708年)の『館林町先規の次第覚書』によると、徳川綱吉が館林藩主であった時代の天王祭の様子は以下のようであった。 祭礼7日前の6月朔日、藩から資材が下げ渡され、市中の3ヶ所に仮屋が築かれた。 祭礼当日は三社の神輿がそれぞれ市中を渡御したが、山伏や巫女に護られ神馬、榊、獅子舞、太鼓、鉾などとの行列を作り、片町で3つの神輿が落ち合った。 行列を整えて大手門を入り、千貫橋を渡って入城し、城主、城代の拝礼を受けつつ神楽を奉納。城代からは奉納物が支給された。 城主の拝礼後に神輿は下城し、町中を渡御した。 後世に記された享保14年(1729年)の『館林町差出之写牛頭天王一件四箇条』によると、以下のようなことも行われたようである。 地踊りや作り物、練り物などの芸能が出て、前日6日の宵祭には町の両奉行両検断前にて、本祭当日には城内丸戸張にて芸能奉納後、町内に戻った。 城を掃き清め、城内御台所にて屋台狂言なども実施された。 三社の幣束は町与力へ預けられ、町奉行へ奏上された。 天王の鎮座地三町以外の各町は、三分されいずれもこれに属した。これらの町グループのうち1つが「年役」と呼ばれその年の天王祭の祭事を司り、他の1つが「助け(すけ)役」と呼ばれ年役を補佐する役割を担い、年役と助け役を年番で3つの町グループが担当した。この年役、助け役を担当した町内では、町内での飾り物出展や演劇の催事、または山車を出すなど趣向をこらし、夜を徹して祭は盛り上がったようである。 また、神輿渡御時の輿丁(よちょう、担ぎ手)としては、周辺農村の農民が多く奉仕した。神輿の登城に伴い城の中に入ることができる機会として、喜んで応援に訪れたことに端を発して、ついには慣例になったようである。
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