綱吉の政治と正徳の治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:13 UTC 版)
詳細は「正徳の治」を参照 しかし、安定した幕府政治も完璧という訳ではなく、様々な矛盾は当初から内包され、次第に問題化していくことになる。とりわけ幕府財政の危機は、諸国の幕府直轄金山・銀山の枯渇傾向、長崎における海外交易赤字による金銀の流出、明暦の大火・大地震・富士山の噴火などの災害復興事業による出費などから、いち早く訪れた。5代将軍となった徳川綱吉は、儒教による理念的な政治思想を掲げつつも、財政改革の必要に迫られ、勘定奉行に荻原重秀を抜擢して解決を図った。荻原は元禄小判による貨幣改鋳(金含有率を減らして貨幣流通量を増やす)によって財政問題を一時的に解決するが、結果として元禄期のインフレ状況を生じることとなり、物価の高騰を招いた。ただし現在ではこのインフレ政策(金融政策)と、綱吉と桂昌院による寺社改築など公共投資(財政政策)により、金回りが良くなって好景気となり、元禄文化が華開いたと、肯定的に見直す向きもある。また、財政以外の改革では生類憐れみの令が知られる。 6代将軍となった徳川家宣は甲府徳川家から徳川宗家を継ぎ将軍職となると、甲府藩家臣であった側用人の間部詮房や学者の新井白石を起用し、改革を行った。間部・新井が主導した改革を年号をとって「正徳の治」という。綱吉時代の政策は否定され、生類憐れみの令は撤回、勘定吟味役の創設、正徳金銀発行(デフレ政策)による綱吉時代の財政矛盾の解決などを行ったが、6代家宣、7代家継があいついで早世したため、改革は中途半端に終わった。
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