吉良家
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吉良上野介義央 高家旗本。松之大廊下で浅野長矩から刃傷を受ける。赤穂浪士に討ち入られ殺害された。 上杉富子 吉良義央の正室。吉良家が本所に屋敷替えになったのを機に吉良と別居して上杉の実家に帰っていく。 吉良左兵衛義周 高家旗本。吉良義央の養子。刃傷事件後は吉良家の当主となる。討ち入りの際に戦って重傷を負う。事件後に吉良家は領地召し上げとなり、信州高島へ配流された。 赤穂浪士討ち入りの際、薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も武林隆重により額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した(「左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由」『米沢塩井家覚書』より)。 自ら武器を取り奮闘にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった。配所では絵や書をよく書いていたが(書芸『三十六歌仙』が諏訪神社に現存)、持病の癪ひきつけが悪化し宝永3年に20歳で逝去。 左右田孫兵衛重次 吉良家家老。事件後、吉良義周の配流に従う。義周が亡くなった後は三河国吉良へ戻り余生を過ごした。 斎藤宮内忠長 吉良家筆頭家老。戦わずに生き残った。 山吉新八郎盛侍 吉良家家臣。討ち入りの際に最も奮戦し、負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従う。のちに米沢へ戻り、三十人頭に就任し200石を領した。
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吉良家 (三河吉良氏)
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「高家 (江戸時代)」の記事における「吉良家 (三河吉良氏)」の解説
清和源氏足利氏流。大沢家とともに江戸時代初期から高家を勤めた。4200石。元禄14年(1701年)4月に殿中において勅使饗応役だった赤穂藩主浅野長矩が、指南役だった同家の当主吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は切腹、赤穂藩は改易となり、その翌年暮れに吉良邸に浅野の遺臣の一団が討ち入り、義央が討ち取られる赤穂事件が起きた。この事件により改易された。1732年(下記の蒔田氏の吉良への改姓よりも後)に分家にあたる500石の旗本東条義孚が吉良に改姓する形で「三河吉良氏」が再興されたが高家の地位は認められず、一般の旗本家として続いた。
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吉良家 (武蔵吉良氏)
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「高家 (江戸時代)」の記事における「吉良家 (武蔵吉良氏)」の解説
清和源氏足利氏流。三河吉良家とは遠祖を同じくする別系統である。元は吉良姓であったが、三河吉良家に遠慮して蒔田姓に改める(今川、品川両家の例のように、幕命とも伝わる)。蒔田義成が高家となり、その息子義俊が高家吉良家の絶家に伴って吉良姓に復する。1420石。
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