吉良家とは? わかりやすく解説

吉良家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:57 UTC 版)

赤穂事件の人物一覧」の記事における「吉良家」の解説

吉良上野介義央 高家旗本松之大廊下浅野長矩から刃傷を受ける。赤穂浪士討ち入られ殺害された。 上杉富子 吉良義央正室。吉良家が本所屋敷替えになったのを機に吉良別居して上杉実家帰っていく。 吉良左兵衛義周 高家旗本吉良義央養子刃傷事件後は吉良家の当主となる。討ち入りの際に戦って重傷を負う。事件後に吉良家は領地召し上げとなり、信州高島配流された。 赤穂浪士討ち入りの際、薙刀持って相手を傷つけたが、自身武林隆重により額と腰から背中にかけて傷を負い気絶した(「左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由」『米沢塩井覚書』より)。 自ら武器取り奮闘にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩諏訪安芸守忠虎にお預けとなった配所では絵や書をよく書いていたが(書芸三十六歌仙』が諏訪神社現存)、持病の癪ひきつけ悪化し宝永3年20歳逝去左右田孫兵衛重次 吉良家家老事件後、吉良義周配流に従う。義周が亡くなった後は三河国吉良戻り余生過ごした斎藤宮内忠長 吉良家筆頭家老戦わず生き残った山吉新八郎盛侍 吉良家家臣討ち入りの際に最も奮戦し負傷その後吉良義周幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従う。のちに米沢戻り三十人頭に就任し200石を領した

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吉良家 (三河吉良氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 12:06 UTC 版)

高家 (江戸時代)」の記事における「吉良家 (三河吉良氏)」の解説

清和源氏足利氏流。大沢家とともに江戸時代初期から高家勤めた。4200石。元禄14年1701年4月殿中において勅使饗応役だった赤穂藩浅野長矩が、指南役だった同家当主吉良義央刃傷に及び、浅野長矩切腹赤穂藩改易となり、その翌年暮れ吉良邸に浅野遺臣一団討ち入り、義央が討ち取られる赤穂事件起きた。この事件により改易された。1732年下記蒔田氏吉良への改姓よりも後)に分家にあたる500石の旗本東条義孚が吉良改姓する形で「三河吉良氏」が再興されたが高家地位認められず、一般旗本家として続いた

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吉良家 (武蔵吉良氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 12:06 UTC 版)

高家 (江戸時代)」の記事における「吉良家 (武蔵吉良氏)」の解説

清和源氏足利氏流。三河吉良家とは遠祖同じくする別系統である。元は吉良であったが、三河吉良家に遠慮して蒔田姓に改める(今川品川両家例のように、幕命とも伝わる)。蒔田義成高家となり、その息子義俊高家吉良家の絶家伴って吉良姓に復する。1420石。

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