吉良家の高家再興
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赤穂事件以来、三河吉良家は断絶したが、武蔵吉良家(奥州管領家)の義俊は、姓を蒔田から吉良に戻す許可を幕府に求め、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。これにより三河吉良家は途絶えたまま、武蔵吉良家が高家を次ぐことになった。三河吉良家も義孚が享保8年(1723年)に旗本として再興され、西の丸書院番を歴任する。
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吉良家の高家再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)
赤穂事件以来、三河吉良家が断絶していたため、武蔵吉良家の義俊は、姓を蒔田から吉良に戻す許可を幕府に求め、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。これにより三河吉良家は途絶えたまま、武蔵吉良家が高家を次ぐことになった。一方、義央の弟にあたる義叔は旗本として東条姓を名乗っており、その息子の東条義武の末期養子であった義孚が、享保17年(1732年)に、義央の家系が絶えていることを理由に東条家から吉良家への復姓を幕府に願い出て許された。この再興吉良家には高家の格式は与えられなかった。 また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した。
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