吉良家の相続と改易
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元禄9年11月21日(1696年12月5日)、5代将軍・徳川綱吉に初御目見する。元禄14年3月14日(1701年4月21日)、義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日(1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。これに伴い、義周が相続して表高家に列した。赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら薙刀をとって応戦し、武林隆重(「左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由」『米沢塩井家覚書』より)に面と背中を斬られてそのまま気絶したものの、不破正種に薙刀を奪われ(「数右衛門透間もなく切り懸り…長刀を見れば、銀の金物に梧桐のとふの紋所あり、(欠字)は左兵衛に紛れなしとて、其長刀を取りて帰る」『久松家赤穂御預人始末記』など)、重傷の義周は其の儘に捨て置かれて斬首されることはなかった。 事件後、すぐに家臣の糟谷平馬を使者にし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中・稲葉正通邸に届け出ている(『検使宛吉良左兵衛口上書』)。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された義周は、当日の対応に際する「仕方不届」を理由に改易の上、信濃国諏訪藩4代藩主・諏訪忠虎へのお預けを言い渡され、吉良家(三河西条家)は義周を最後に断絶した。なお、同日には赤穂浪士たちに切腹の沙汰が下り、寺坂を除く浪士全員が切腹している。
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