吉良家の相続と改易とは? わかりやすく解説

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吉良家の相続と改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:49 UTC 版)

吉良義周」の記事における「吉良家の相続と改易」の解説

元禄9年11月21日1696年12月5日)、5代将軍徳川綱吉に初御目見する。元禄14年3月14日1701年4月21日)、義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日1702年1月9日)、義央は事件影響隠居したこれに伴い、義周が相続し表高家列した赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年12月14日1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら薙刀をとって応戦し武林隆重(「左兵衛様疵ハ、武林唯七手に御座候由」『米沢塩井覚書』より)に面と背中を斬られてそのまま気絶したものの、不破正種薙刀奪われ(「数右衛門透間もなく切り懸り長刀見れば、銀の金物梧桐のとふの紋所あり、(欠字)は左兵衛紛れなしとて、其長刀取り帰る」『久松家赤穂御預人始末記』など)、重傷の義周は其の儘捨て置かれ斬首されることはなかった。 事件後、すぐに家臣の糟谷平馬を使者にし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中稲葉正通邸に届け出ている(『検使吉良左兵衛口上書』)。元禄16年2月4日1703年3月20日)、幕府評定所呼び出された義周は、当日の対応に際する仕方不届」を理由改易の上信濃国諏訪藩4代藩主諏訪忠虎へのお預け言い渡され吉良家三河西条家)は義周を最後に断絶した。なお、同日には赤穂浪士たちに切腹沙汰下り寺坂を除く浪士全員切腹している。

※この「吉良家の相続と改易」の解説は、「吉良義周」の解説の一部です。
「吉良家の相続と改易」を含む「吉良義周」の記事については、「吉良義周」の概要を参照ください。

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