吉良家の正室として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:04 UTC 版)
吉良家に嫁いだ後、富子と改名する。義央との間には二男四女に恵まれた。長男・吉良三之助(後の上杉綱憲)は綱勝の養子に入って上杉家を相続し、長女・鶴姫は綱憲の養女に入って70万石の薩摩藩主・島津綱貴に嫁いだ。三女・阿久理姫と四女清姫も綱憲の養女となり、それぞれ旗本・津軽政兕と旗本・酒井忠平(忠平は急死したため、代わって公家・大炊御門経音)に嫁いでいる。一方、次男・吉良三郎と次女・振姫は夭折した。特に三郎の死は吉良家に世継ぎが居なくなったことを意味していたため、元禄元年(1688年)12月に綱憲の次男・上杉春千代(後の吉良義周)を養子に迎えた。 上杉家の力に頼るところが大きい吉良義央は、当然のことながら妻の富子をことのほか大切にしたとされる。富子が眼病を患って、その治癒の祈祷のため身延山久遠寺に赴いた時、もし自分の病気が快癒すれば同寺の七面天女を一生の守り本尊とすることと、夫の領地に新田を開いて供養することを請願し、その後実際に眼病が治る、ということがあった。元禄元年(1688年)に所領の吉良庄で行なわれた大規模な新田開発は、義央が妻の請願を実行するために行なわせたもので、この新田は「富好新田」と名づけられたという伝承がある。ただし神仏に対する請願に自領内の開発を願掛けするのは不合理である上に、自らの名をつけるというのも請願成就の返礼としては不自然であり、そもそも当時の実名敬避俗(実名を敬って避ける習俗)から見ても、貴人の名から一字取ったという話には疑念がある。実際の新田開発はその数年後の元禄3年(1691年)から開始されて数年を要しており、この逸話は戦後に作られた吉良領の塩田開発の創作と同様、伝説の域を出ないものと考えられる。 また、吉良家の剣客として知られる清水一学は、もともと吉良の領地の農民であったが、士分に取り立てて吉良邸で働かせるよう義央に勧めたのは富子であったといわれる(富子は一学に亡き息子・三郎の面影を見たとする説がある)。義央は富子付きの侍女・浅尾局、丹後局などの吉良家に嫁ぐ前から富子に仕えている中臈や、小姓までにも気配りを欠かさなかったという。
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