大関昇進後~横綱を逸する
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「若嶋津六夫」の記事における「大関昇進後~横綱を逸する」の解説
1983年9月場所より四股名を若島津六男から若嶋津六夫に改名する。大関昇進後はほぼ安定して11勝前後をあげ、次の横綱は若嶋津を推す声も日に日に強くなっていた。1984年(昭和59年)3月場所は14勝1敗で初優勝。初の綱取りとなった翌5月場所は9勝6敗に終わるが、7月場所では15戦全勝で2度目の幕内優勝を果たす。2度目の綱取りだった同年9月場所では、若嶋津も終盤まで優勝争いに加わったが、平幕ながら千秋楽まで優勝争いに絡んでいた小錦と、多賀竜にそれぞれ敗れたのが大きく響き、結局11勝4敗に終わり連続優勝と綱取りを惜しくも逸した。11月場所も11勝4敗だったが、同1984年の年6場所の成績は71勝19敗を挙げ、自身唯一の年間最多勝を獲得した。 翌1985年(昭和60年)2月、当時アイドル歌手だった高田みづえとの婚約を発表し、その席で高田は同時に芸能界引退を表明。婚約直後の3月場所では、千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、同大関の朝潮との12勝2敗同士の相星決戦で敗れ、3度目の幕内優勝は果たせなかった。5月場所は3度目の横綱挑戦だったが、横綱千代の富士には勝利したものの10勝5敗に終わり失敗、さらにこれが自身最後の2ケタ勝ち星となった。7月場所は7日目の大錦戦で左の肩と肘を捻挫して途中休場。その後は千秋楽まで優勝争いに加わることは無くなり、横綱へのチャンスは二度と巡ってこなかった。
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