大関昇進後~横綱を逸するとは? わかりやすく解説

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大関昇進後~横綱を逸する

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:45 UTC 版)

若嶋津六夫」の記事における「大関昇進後~横綱を逸する」の解説

1983年9月場所より四股名若島津六男から若嶋津六夫改名する大関昇進後はほぼ安定して11前後をあげ、次の横綱若嶋津推す声も日に日に強くなっていた。1984年昭和59年3月場所14勝1敗で初優勝。初の綱取りとなった5月場所は9勝6敗に終わるが、7月場所では15全勝2度目幕内優勝を果たす。2度目綱取りだった同年9月場所では、若嶋津終盤まで優勝争い加わったが、平幕ながら千秋楽まで優勝争い絡んでいた小錦と、多賀竜それぞれ敗れたのが大きく響き結局11勝4敗に終わり連続優勝綱取り惜しくも逸した11月場所11勝4敗だったが、同1984年の年6場所の成績7119敗を挙げ自身唯一の年間最多勝獲得した。 翌1985年昭和60年2月当時アイドル歌手だった高田みづえとの婚約発表し、その席で高田同時に芸能界引退表明婚約直後3月場所では、千秋楽まで優勝争い絡んだものの、同大関の朝潮との12勝2敗同士相星決戦敗れ3度目幕内優勝果たせなかった。5月場所3度目横綱挑戦だったが、横綱千代の富士には勝利したものの10勝5敗に終わり失敗、さらにこれが自身最後の2ケタ勝ち星となった7月場所7日目大錦戦で左の肩と肘を捻挫して途中休場その後千秋楽まで優勝争いに加わることは無くなり横綱へのチャンス二度と巡ってこなかった。

※この「大関昇進後~横綱を逸する」の解説は、「若嶋津六夫」の解説の一部です。
「大関昇進後~横綱を逸する」を含む「若嶋津六夫」の記事については、「若嶋津六夫」の概要を参照ください。

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