大関昇進~現役引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 02:28 UTC 版)
新小結だった場所でまさかの全敗を喫して平幕に降格した1935年1月場所では、2日目に駒ノ里秀雄戦で敗れただけの10勝1敗の好成績を記録して玉錦三右エ門と並んでの優勝同点となったが、当時は優勝決定戦が存在せず、代わりに番付上位の者が優勝する制度が存在していたため、この場所は横綱だった玉錦が優勝となった。ここから鏡岩の快進撃が続き、1936年1月場所には関脇に昇進すると8勝3敗、同年5月場所で9勝2敗の好成績を挙げ、5月場所で11戦全勝での幕内最高優勝を果たした双葉山定次と同時に大関へ昇進したが、そのとき既に34歳だった。 1938年に師匠・粂川が亡くなると、二枚鑑札によって粂川部屋を継承した。大関昇進後は年齢的な体力の限界から従来までの怪力ぶりを発揮する相撲ではなく、勝負に恬淡として土俵を楽しむ相撲が多くなっていく。具体的には男女ノ川登三を居反りで、当時新鋭だった羽黒山政司を二丁投げで破るなど、様々な技を繰り出して相手を倒す技巧派へ転身した。1939年5月場所で4勝11敗と大きく負け越したことで大関陥落が決定的になったために現役を引退し、年寄専任となった。
※この「大関昇進~現役引退」の解説は、「鏡岩善四郎」の解説の一部です。
「大関昇進~現役引退」を含む「鏡岩善四郎」の記事については、「鏡岩善四郎」の概要を参照ください。
- 大関昇進~現役引退のページへのリンク