十両昇進から横綱昇進まで
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1990年3月場所新十両。同年9月場所若花田(のち若乃花)、大翔山、貴闘力とともに新入幕。ちなみに一文字四股名の新入幕力士は1916年5月場所新入幕の明 虎吉(あきらか とらきち)以来74年ぶりであった。また1993年3月場所には、1915年6月場所の鳳 谷五郎以来、実に78年ぶりの一文字四股名の新横綱となった。新入幕の頃には既に内心で大相撲に対する使命感を持っていたとのことであり、これについては「僕らの場合は8勝、勝ち越しなんかじゃ許されない。10番くらい勝って、ようやく『まぁまぁよかった、合格点』みたいな感じだったわけです。それくらい、周囲の期待はものすごいものがある。でも、それに応えて、それでも満足できない僕らがいたんですよ」と引退後のインタビューで述懐している。また、当時前頭筆頭の地位だった1991年7月場所初日では、体重が200Kg以上の巨漢横綱だった大乃国を、曙自ら立合いから一撃で大乃国を押し倒し、土俵の外へ一気に吹っ飛ばした事もあった。なお、同場所で復活を懸けた横綱大乃国は、この一番で調子を狂わせたのか8日目で4勝4敗の成績不振により、この1991年7月場所限りで現役引退となっている。 1992年5月場所千秋楽では、最後まで優勝争いに加わっていた当時前頭7枚目の若花田を一気に押し倒して、幕内初優勝を果たした。これで直近3場所の成績が、全て三役の地位で13勝(優勝次点)-8勝-13勝(優勝)で合計34勝11敗、大関昇進の目安とされる「三役で3場所合計33勝以上」の成績を挙げる。但し「2場所前の8勝7敗が物足りない」という意見が一部出ていたものの、当時横綱は5月場所直前で北勝海が引退して空位、大関も小錦と霧島の二人しかいなかった事情も有って、満場一致で曙の大関昇進が決まった。昇進伝達式では「大関の地位を汚さぬよう、けいこに精進します」と口上を述べた。 しかし期待された新大関の翌1992年7月場所直前、直前のヨーロッパ巡業による時差ボケや遠征の疲労の影響か、稽古中に足の小指を骨折してしまった。曙本人は強行出場を直訴したものの師匠を初め周囲の大反対の意見を受け、医師からも「ここで無理すれば、完治までに3か月かかる。安静にしていれば1か月で治る」と説明されたことで、初土俵以来初の無念の全休に。いきなり大関角番となった次の同年9月場所は、9日目で3勝6敗と黒星が先行。あわや大関2場所目で関脇陥落の大ピンチだったが、そこから切り抜け終盤6連勝、9勝6敗となんとか勝ち越した。とはいえ本人にとってこの場所の不甲斐なさは相当であったようであり、場所後は「吐くまで飲んだ」と伝わる。そして1992年11月場所では14勝1敗と2度目の優勝。11月場所後の横綱審議委員会では「曙の風格、実績はまだ十分ではない気がする」「成績、内容ともハイレベルな横綱を作ろう」との意見が出て横綱昇進には厳しい条件が付きつけられたが、翌1993年1月場所も、11日目で平幕相手に2敗を喫した時点で一度は横綱昇進は「破談」とされたが、千秋楽結びの一番では大関昇進を賭けていた関脇の貴花田との直接対決をわずか2秒余りで圧倒し、13勝2敗で3度目の優勝。2場所連続優勝を果たしたことで1月場所後の横綱審議委員会では曙の横綱昇進が推薦され、外国出身初の横綱に昇進した。これにより1992年5月場所から1993年1月場所まで5場所(番付上は4場所)続いた横綱空位が解消された。当時の曙は「すんなり昇進できた」と認識していた一方で、貴花田の大関昇進についてかなり厳しい見方があったことが伏線になっていたと振り返っている.。横綱昇進伝達式では「横綱の地位を汚さぬよう、けいこに精進します」と口上を述べた。
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