十両初昇進後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:01 UTC 版)
新十両として迎えた2013年5月場所は東十両11枚目の地位で6勝9敗の負け越しに終わり、翌7月場所は運悪く東幕下2枚目まで地位を下げてしまった。 5月場所中には左上手を得意とする(後述)力士の生命線である左手小指も骨折しており、9月場所まで負け越しが続いたことで11月場所には西幕下11枚目まで番付を後退させていた。それでも11月場所から翌2014年3月場所まで3場所連続で4勝3敗の勝ち越しで終え、続く5月場所には東幕下4枚目まで番付を戻すと、その場所も5番相撲までに4勝を上げて勝ち越し、6番相撲では敗れたが7番相撲で十両復帰を争う東3枚目の栃飛龍との直接対決に勝利して5勝2敗とした。地位と成績の兼ね合い上際どかったものの、十両から幕下に陥落する力士が6人いたことで再十両を果たした。場所後、善通寺市役所と母校の高松南高校を訪問した際には「勝負の場所だった。股関節を痛めていたが、気持ちでカバーした」と思いのたけを明かし、7番相撲でこれまで白星を挙げたことがなかった栃飛龍と対戦した感想も口にした。ところが続く7月場所は冴えず、2日目から8連敗して9日目に負け越しを確定させ、最終的に4勝11敗の大敗を喫した。 幕下に落ちて3場所後、東幕下4枚目で迎えた2015年1月場所は3勝1敗で迎えた5番相撲で右足を負傷したが、千秋楽に東2枚目の慶天海を寄り倒して4勝目をあげ、勝ち越しが決定。場所後に3度目の十両昇進が決定した。西十両14枚目の3月場所は序盤から一進一退が続き、12日目を終えた時点で6勝6敗の五分だったが、終盤3日間で3連敗を喫して負け越し、1場所で幕下に降下した。 翌5月場所からは2場所連続で4勝3敗の勝ち越しを続け、9月場所で4度目の十両昇進。しかし西十両14枚目で迎えた9月場所は髄膜炎に苦しみ、3勝7敗から3連勝して粘ったが、結局6勝9敗で十両4場所目も初の勝ち越しはならなかった。 幕下に落ちた後は2場所連続で3勝4敗で負け越して西幕下9枚目まで番付を下げたが、2016年3月場所からは3場所連続で勝ち越しを続け、7月場所後に5度目の十両昇進が決定した。しかし9月場所も12日目からの4連敗で5勝10敗の負け越し。これにより勝ち越しなしの十両在位記録最多タイに並んでしまった。十両1場所で幕下陥落を5回繰り返すのは史上初である。 西幕下2枚目で迎えた11月場所は1番相撲から3連敗したが3連勝して持ち直し、千秋楽に十両の朝赤龍を破り4勝3敗と勝ち越した。 2017年1月場所で6度目の十両昇進を果たしたが、この場所も初日から3連敗するなど負けが先行し、5勝10敗で勝ち越しはならず、幕下に陥落した。2月から宝富士や安美錦が通うジムで鍛え始めた。それまで行っていた自己流のウエートトレーニングとは違い「柔らかい筋肉になってきた。成果は出ている」と実感を語っていた。5月場所は西幕下筆頭で4勝3敗となったが、十両から幕下に落ちる星の力士が少ないことと東幕下筆頭の阿炎が勝ち越したことなどから場所後の十両昇進はならなかった。続く7月場所は東幕下筆頭となり、勝ち越せば十両昇進は間違いない状況となっていたが、4勝3敗と勝ち越したことで、場所後の番付編成会議で9月場所での再十両昇進が決まった。7回目の十両昇進となったが、これは同時に再十両が決まった北磻磨らと並び、史上2位タイの記録である。9月場所は初日から自身初の4連勝を記録し、6日目終了時は5勝1敗の成績だったが、7日目に肩を負傷、さらに11日目に左膝前十字靱帯を損傷し、12日目から途中休場した。翌11月場所は西幕下2枚目へ陥落したが、4勝3敗と勝ち越して、1場所での十両返り咲きを果たした。これにより2018年1月場所では8度目の十両昇進になり、須磨ノ富士の持つ史上最多記録に並ぶこととなった。
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