十両昇進から大関候補に名乗りを上げるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:28 UTC 版)
「髙安晃」の記事における「十両昇進から大関候補に名乗りを上げるまで」の解説
新十両昇進を決めた直後の10月15日の秋巡業土浦場所では白鵬に胸を出してもらった。この日の白鵬は関取衆では最も多い18番を取って17勝1敗であったが、1敗は高安につけられたものであった。後に高安は大関に昇進したので、白鵬には先見の明があったということになる。 新十両で迎えた翌11月場所では、11勝4敗という好成績を挙げ、東十両3枚目の位置まで大きく番付を上げた翌2011年1月場所でも、9勝6敗と勝ち越し、続く5月技量審査場所でも東十両筆頭の位置で8勝7敗と勝ち越しを決めて、翌7月場所において新入幕を果たした。高安と同時に十両に昇進した平成生まれの舛ノ山を一歩リードしての新入幕に「目指していた地位なのでうれしい」と素直に喜んだ。十両を3場所で通過した要因を「迷いがなく思い切った相撲が取れるようになった」と説明。父の強い勧めもあって、しばらくしこ名は本名の高安のままでいく。「精神力を鍛えてまずは勝ち越しをしたい」と抱負を語った。しかしデイリースポーツにおける高安の記事の扱いは同時に入幕した「マツコ・デラックス激似」の宝富士と「負け越しで昇進」という44年ぶり珍事の当事者となった高見盛に押されて小さな扱いだった。 新入幕となった2011年7月場所では8日目の時点で7勝1敗と非常に好調で、後半戦では黒星が込んだものの最終的には9勝6敗と勝ち越した。幕内4場所目となる2012年1月場所では西前頭3枚目まで番付を上げ、8日目には横綱・白鵬と対戦し、平成生まれの力士としては初めて結びの一番を務めた。同年5月場所では、自己最高位となる西前頭筆頭へと番付を上げたが、5勝10敗と大きく負け越した。翌7月場所でも、初日から8連敗と振るわず、後半には盛り返したものの6勝9敗と負け越した。翌9月場所では、初日からの8連勝で中日に勝ち越しを決め、勝てば敢闘賞受賞が決定していた千秋楽の舛ノ山戦に敗れて三賞受賞はならなかったものの、10勝5敗という好成績を挙げた。 2013年1月場所では、6日目から9連勝して10日目に勝ち越しを決め、12勝3敗の好成績を挙げて自身初となる敢闘賞を受賞した。翌3月場所では3日目に横綱・日馬富士を破り自身初となる金星を獲得したものの、結果的には5勝10敗と大きく負け越した。続く2013年7月場所では、3日目に横綱・日馬富士を上手捻りで破り2個目の金星を獲得し、その後も5日目に鶴竜、6日目に琴欧洲の2大関を破って9勝6敗と勝ち越し、初の殊勲賞を受賞した。翌9月場所では小結へ昇進し、平成生まれ初の三役力士となった。しかし、その場所では横綱・大関陣からは白星を挙げられず(琴欧洲の不戦勝を除く)、5勝10敗と大きく負け越した。翌11月場所は番付運に恵まれてわずか2枚半下降の東前頭3枚目の地位に就いたがここで3勝12敗の大敗を喫してしまう。 2013年末には、師匠の14代鳴戸(隆の鶴)が田子ノ浦に名跡を変更したことに伴う部屋移転に追われる苦労を味わった。田子ノ浦部屋の力士として迎えた2014年1月場所直前の2014年1月2日には、木刀を振るという独特の調整法を実践している様子が伝えられていた。1月場所は終盤4連勝する追い上げもあって9勝6敗の勝ち越しとなった。 同年5月場所を東前頭8枚目での6勝9敗で終えた高安は、千秋楽の翌日に「優勝争いに絡みたい」と翌7月場所に向けての決意を固めるべく、母の故郷・フィリピンへ出掛け、マニラの議員会館でマニー・パッキャオを訪ねたり、母の兄弟と会うなどして過ごした。ちなみに高安がフィリピンを訪れるのはこれが初めてだったという。13代鳴戸もパッキャオをボクサーとして気に入っており、稽古場で試合の話をすることが多かったという。 西前頭11枚目の地位で迎えたその7月場所は、2012年9月場所以来となる中日勝ち越しを果たし、三役以上との対戦が、大関・琴奨菊ただ1人に留まった有利もあって優勝争いに最後まで加わるも、千秋楽の取組を終えて11勝4敗となった時点で、12勝3敗同士の優勝決定戦に望みをつなぐことは不可能となった。結局、優勝は13勝2敗の白鵬が勝ち取ったものの、2013年1月場所以来となる2ケタ勝利を収めた上に、敢闘賞を獲得する活躍を果たすことができた。 東前頭3枚目の地位で迎えた11月場所は、白鵬に初めて勝利して唯一の黒星を付けた他、日馬富士・豪栄道と2横綱1大関を破る活躍で10勝5敗の好成績を挙げ、2つの金星が評価されて2度目の殊勲賞を受賞した。 2015年春巡業のトーナメント戦では、優勝を果たして賞金100万円を手にし、これで弾みが付いたのか、直後の5月場所では10勝5敗の勝ち越しを収めた。同年9月場所では、2日目に大関・豪栄道を撃破する星があったが、3日目の逸ノ城戦で左足を負傷し、「左下腿筋挫傷、左足関節靱帯損傷で約3週間の安静加療を要する見込み」との診断書を提出して4日目から途中休場(この日の栃煌山戦は不戦敗)、これが自身初の休場となった。休場明けとなる翌11月場所は、場所前に稽古ができなかったと本人が語っていたが、9日目に勝ち越すなど好調であった。しかし10日目以降は13日目以外白星を挙げられず、終盤の失速により9勝6敗にとどまった。
※この「十両昇進から大関候補に名乗りを上げるまで」の解説は、「髙安晃」の解説の一部です。
「十両昇進から大関候補に名乗りを上げるまで」を含む「髙安晃」の記事については、「髙安晃」の概要を参照ください。
- 十両昇進から大関候補に名乗りを上げるまでのページへのリンク