十両昇進から幕内力士へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 01:26 UTC 版)
「高見山大五郎」の記事における「十両昇進から幕内力士へ」の解説
元々力士としてではなく「外国人」として注目を浴びていた高見山は、幕下時代になると注目が薄れ「もう、そろそろつらくなって逃げ出すんじゃないか」とまで言われた が、初土俵から3年後の1967年(昭和42年)3月場所で新十両に昇進し、初の外国出身外国籍の関取となる。当時の十両は層が薄かったため、神風正一や浅香山(元小結・若瀬川)、東富士は異口同音に「3、4場所、遅くても年内に幕内に昇進する」と予想。十両昇進時に掲載された記事では、将来の三役、打倒・大鵬を果たすと期待され、当時より師匠の高砂から「今どきの日本人の若者と比べれば、彼のほうがずっと日本人的な考え方をしている」と評された。 その期待に違わず、翌1968年(昭和43年)の1月場所で新入幕を果たして史上初の外国出身外国籍の幕内力士となる。同年3月場所では4日目に佐田の山を立合いのぶちかましからの激しい突っ張りで突き出して佐田の山に引導を渡す金星、9月場所でも柏戸から金星を挙げた。1969年(昭和44年)11月場所で小結に昇進するが、その後小結と平幕の往復が続く。1971年(昭和46年)に師匠・高砂親方が亡くなると「ボスが死んで意欲も失った」と廃業も考えた。しかし、師匠夫人ら周囲に励まされて現役続行を決意する。 1972年(昭和47年)7月場所では13勝2敗の好成績で史上初の外国出身力士による幕内最高優勝を遂げる。10日目には、1敗の高見山と3敗の貴ノ花の勝負があり、熱戦の末、高見山の圧力をしのいだ貴ノ花が、左四つからの上手投げに仕留めて1差となったが、そのまま千秋楽まで逃げ切った。表彰式では当時の米国大統領リチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた。 翌場所には外国出身で初の関脇に昇進し、大関候補の一人と目されるようになる。1974年(昭和49年)7月場所には関脇で11勝と、大関を指呼の間にとらえる成績を残したが、翌場所は負け越すなど、相撲の不安定さを克服できず、大関昇進は果たせなかった。よく稽古をつけてくれた大関前の山の引退が出世を止めた一因ともいわれる。1978年(昭和53年)以降は三役入りもなくなったが、なお40歳近くまで現役を続けるという持久力を見せ、幕内連続出場1231回という記録を残した。先述の高校時代の事故の影響もあり足腰の脆さゆえに投げられると弱かったが、力士時代の負傷は少なく長い現役生活に繋がったと評されている。
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