力士時代
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佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。 1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。
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力士時代
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元レスリングのカナダジュニアチャンピオンという肩書きを持ち、佐渡ヶ嶽のスカウトを受け、1985年にルイジアナ州立大学を中退。10月に来日して佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴天太(後に琴天山)の四股名で1985年11月場所にて初土俵。以降、序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝し、21連勝を達成(前相撲を含めると24連勝)。1986年7月場所には東幕下43枚目に昇進するも、場所前の6月27日に愛知県一宮市の宿舎を無断で飛び出して東京に戻った。7月1日に佐渡ヶ嶽が東京都内で琴天山と会い、戻るよう説得したが、琴天山の意志は固く、結局廃業することとなった。 琴天山は来日の2か月後には早くも「やめたい」と申し出ていて、慰留を受けて思いとどまっていたが、言葉の障害や共同生活になじめないこと、食事が合わないなど、相撲生活に嫌気がさしていた。1986年1月場所後には日本人の恋人ができたが、共同生活では自由に会うこともできず、「自由のない社会はいやだ」ともらすようになっていた。幕下に昇進して強い相手との稽古が多くなり以前より勝てなくなったこと、足にけがをしたことから将来に不安を感じていた。琴天山は「来日前、相撲界の古い習慣、しきたりはあまり聞かなかった」「私も相撲を知らなかったし、親方も外国人を知らなかった」と語った。 佐渡ヶ嶽は琴天山の才能に免じて我儘を許すように部屋の衆に言い聞かせていたが、脇の甘い育て方が裏目に出た結果となった。失踪に同行した通訳との女性とは恋愛関係であり、横綱審議委員の山内昌之は「特別扱いは認められず、愛を取った」と語っている。一方ロバート・ホワイティングの著書によると、怪我をした時の保障に関して親方から捗々しい回答を得られなかったことが廃業の決め手となったという。
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力士時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:18 UTC 版)
1998年3月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。大学を卒業した兄も同時に同じ部屋から幕下付出で初土俵を踏んでおり、これは史上初の兄弟同時の幕下付出であった。当初は玉ノ洋(たまのなだ)という四股名を名乗った。その後は順調に番付を上げて行き、1999年9月場所に十両に昇進、2000年11月場所に新入幕を果たした。その場所は7勝8敗と負け越し十両に陥落したが、2001年3月場所に再入幕を果たし、それ以降は幕内に定着した。 その再入幕に際して、四股名を玉乃島と改めた。これは現役中に亡くなっている51代横綱玉の海が大関時代まで名乗った四股名であり、当時の師匠・片男波(元関脇・玉ノ富士)が、有望な力士にこの由緒ある四股名を襲名させようと考えていたためである。 その再入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げて敢闘賞を受賞し、2場所後の2001年7月場所には12勝3敗の成績を挙げて再び敢闘賞を受賞して、翌9月場所には入幕後5場所目にして小結昇進を果たした。玉乃島は東洋大学出身者として初めて三役力士となった。2004年1月には関脇に昇進した。2003年の11月場所は武蔵丸に勝ち敢闘賞、2004年の5月場所は武双山と魁皇に勝ち12勝し技能賞、2005年3月場所は12勝し敢闘賞、2006年7月場所は11勝し敢闘賞、と活躍し大関候補として期待もされていたが、2004年に魁皇の小手投げで左腕を怪我した影響か、通算4場所務めた三役では勝ち越す事が出来ず、結局、平幕で相撲を取る事が殆どであった。 2008年1月場所には兄・玉光国が引退したが、その場所背中を痛めていた玉乃島は平幕下位で3勝12敗と大きく負け越して、42場所連続で守った幕内の地位を失った。その時は1場所のみで幕内復帰を果たした。しかし2009年9月場所から5場所連続で負け越して、2010年7月場所に再び十両に陥落した。十両でも負け越しを続けたが、11月場所に9勝6敗と8場所ぶりに勝ち越した。 2011年は1月場所こそ9勝6敗と勝ち越したものの、大相撲八百長問題による3月場所中止以後は力を落とし、5月の技量審査場所から4場所連続で負け越した。9月場所は5勝10敗の不振に終わるも10日目の佐田の富士戦では立合いの当たりを受けて鼻血を出しながら上手投げで勝利するという見せ場を作った。11月場所は初日から8連敗を喫し9日目に現役引退を表明した(9日目の琴勇輝戦は不戦敗となった)。
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力士時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:59 UTC 版)
二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場し、優勝した羽黒山に敗れたが、優勝旗手となる(最後の優勝旗手)。1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞している。 なお、この年に力道山の生まれた朝鮮半島に韓国、北朝鮮が建国されたが、その後も力道山は自分の出自をマスコミに公開しないままであった。1949年5月場所に関脇に昇進するが、場所前に肺臓ジストマに罹患したのが響いて大敗する。一年後関脇に復帰したが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。「民族の壁に阻まれて大関に昇進できなかったため廃業を決意した」という説が良く語られるが、場所別成績の通り、最後の出場場所は関脇で一点の勝ち越しにとどまっており、大関に昇進できるような星は残していない。ただし、幕内出場10場所のうち負け越しは1場所だけ、幕内勝率5割8分1厘は戦後の関脇どまりの力士の中では最高である。同世代の鏡里喜代治、栃錦清隆、吉葉山潤之輔とも互角に取っており、力士を続けていれば大関も期待できる逸材であった。 しかし、力道山は酔うとあたりかまわず暴れることで周囲から疎んじられており、師匠の二所ノ関親方との間にはこのような素行への叱責を受けるだけでなく、金銭問題を含むトラブルを多く起こしていた。これが引退の引き金と考えるのが妥当である。相撲界から引退した時、百田の戸籍に長男として入籍。
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力士時代
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立浪部屋に入門し、1947年6月場所初土俵。豊登の四股名に改め、1953年9月場所で十両優勝を果たし、1954年3月場所で幕内昇進して3場所勤めるが、親方との不仲により廃業。得意手は、右四つ、出し投げ、腕捻り、櫓投げ。力任せの強引な取り口だったという。
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力士時代
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相撲の経験は小学校と中学校時代を通じて地域の祭りの大会に出場する程度だったが、格闘技が大好きなため、プロレスラーよりも体格に関する条件が緩かった大相撲力士を志した。高鐵山を尊敬していたということと、大きな部屋だと「君のような小さな人は行司か床山になりなさい」と言われる恐れがあると考えたことなどから、弟子が2人しかいなかった高鐵山が率いる大鳴戸部屋に入門。 初土俵は1976年3月場所。初めの四股名は若高鉄。後に四股名を「維新軍の長州力」にちなんだ現在の名に改名。明らかにプロレス入りを予感させるもので、後に実際にプロレス入りしたが、今日に至るまで長州や維新軍とはまったく接点がない。 相撲取りらしからぬ腹筋の浮いた体格と、山下真司そっくりの端正な顔立ち、元気溢れる勇敢な取り組みで、十両では若花田、貴花田と並び立つ屈指の人気を博した。1989年11月場所で西十両筆頭まで昇進したものの体重が100kgにも満たない小兵であり幕内までは届かなかった。1990年3月場所では、8日目に曙を突き落とし、10日目に若花田を上手投げで土俵下に投げ飛ばすなど後の横綱から豪快な内容で白星をあげている。この間の9日目には貴花田と対戦、内容的には勝っていたものの髷掴みの反則を取られて敗れた。同年7月場所に東十両11枚目で2勝13敗と大幅に負け越し、幕下転落が確実となったため、この場所限りで廃業。十両での通算成績は141勝159敗。十両在位は20場所と当時の年寄襲名の最低条件(十両連続在位20場所以上)も満たしていて本人にも年寄襲名の意欲はあった。また、師匠の大鳴戸も将来的には養子にし、部屋を譲る意向があったとも伝えられたが、引退時に29歳で自分を賭けてみたい気持ちがあったことや、廃業前に大鳴戸から部屋継承のために提示された金銭的な条件に不満を感じたことなどから、廃業を選んだという。
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力士時代
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中学時代は水泳部に所属し大会でも入賞するなど活躍した。高校に進学しても水泳を続けたが、高校卒業と同時に父の知人だった元大関・旭國斗雄の大島部屋に入門。1987年3月場所に初土俵を踏んだ。しかし、リウマチ熱や左足の故障に悩まされ2度も番付外に陥落、一時期は廃業するつもりで実家に帰ってしまったこともあった。当時は再出世の力士も出世披露を受けることになっていたことから、初土俵の時を含めて3回出世披露を受けた。 以降は、着実に番付を上げて行き入門から3年で幕下に昇進したものの、体重が増えず幕下と三段目を往復する生活が続いた。徐々に体重も増え、幕下中位でも成績を残せるようになり、1992年11月場所には西幕下16枚目の地位で幕下優勝を果たした。しかし規定(15枚目までの地位での幕下優勝者は翌場所十両に昇進)により1枚違いで場所後の十両昇進はならず、翌場所は東幕下筆頭に留め置かれ、大負け。勝てば勝ち得となる八番相撲も組まれたにもかかわらず結局2番しか勝てなかった。数場所の間幕下の1桁を一進一退した。この間、母親の勧めもあって名を耐治から勝照に改めている。その後、1993年9月場所には東幕下4枚目の地位で再び幕下優勝を果たし、翌11月場所に十両に昇進。1995年3月場所には新入幕を果たした。春日井市からの関取昇進、新入幕は史上初。 左四つ得意で右上手を取ると力を発揮し、1996年3月場所では貴乃花から金星を挙げて9勝6敗で殊勲賞。翌5月場所には新三役で小結に昇進した。春日井市出身の三役は史上初。その場所には8勝7敗と勝ち越し、翌7月場所には関脇に昇進してもおかしくはなかったが、西から東に回っただけで番付運に泣かされ昇進することはできなかった。続く9月場所は曙から金星を挙げて9勝6敗で敢闘賞。その後も幕内上位での相撲が続き、曙太郎・貴乃花光司から金星を獲得するなど地力の高さを見せた。瓢箪をぶら下げた化粧廻しや、電飾を使った化粧廻しを使用したことでも知られている(後者に関しては、露鵬・白露山兄弟も使用)。
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