現役力士時代とは? わかりやすく解説

現役力士時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 22:55 UTC 版)

三重ノ海剛司」の記事における「現役力士時代」の解説

入門当初、「どんなことがあっても5年頑張ろう5年経って20歳だからそこから第二の人生歩める」と考えていたが、周囲石山が本気で力士になるという決断をしたとは思っておらず、母親も「すぐに帰って来るだろう」と考えていた。入門時点での出羽海部屋には所属力士80人ほどおり、人数過多のため土俵での稽古ままならないほどであったが、そんな中石山朝稽古が始まる午前6時より前の5時台(早い時には4時半)に起きて四股踏んでいた。取的時代にはちゃんこ食べにしてもスープしかない鍋の周り自身と同じ取的同士10程度囲み全員半身になってスープ取り合いつつ、ご飯にかけてかき込むなど苦労経験した入門し1年半経過した頃には虫垂を切除し、そこから徐々に体が大きくなって、稽古積みながら少しずつ番付上がった序二段時代には頭をぶつけて内出血したことで入院し、5千円現在の2万5千円相当する)を母から借り角界入って金を求めたのは最初で最後だったが、これで絶対親に苦労かけてはいけないと石山思った入門前の相撲経験皆無であったこともあって大相撲入門後は二番出世序二段13場所も留まるなど出世遅く非力体格にも恵まれていなかったために周囲から期待されおらず、8代出羽海は「1週間もしないうちに、嫌になって帰るだろうと思っていた」といい、1967年9月場所三段目優勝果たしてようやく部屋付の高崎から「三段目優勝初めておまえの存在知ったと言われるほどであった本人初土俵同期旭國1年幕下上がるのを見て焦り覚えたという。尤も、旭国は約1年見習として下積みしてから初土俵踏んだため、旭國出世速かったのはある意味では当然である。序二段最後に部屋若者頭から四股名自分考えろと言われ当時出羽海部屋所属力士の数が多かったため、親方四股名考えてくれなかった)、四股名三重ノ海」を名乗るようになった三重県には「海」があって、部屋名の「出羽海」にも「海」の字があり、それらから取った「海」の字に出身の「三重」の字を足した、というのが四股名の由来である。出身三重使った四股名では、当時部屋には三重ノ山や三重光がいたのでそれ以外となると、海が思い浮かぶということ「海」の字を採用したという。三段目優勝以降幕下定着し先輩一人が「三段目優勝した力士のだいたいが関取になる場合が多いから」という言葉で気を良くして、更に稽古励んだ。東幕下5目の地位土俵上がった1969年1月場所には5勝1敗ともう1勝すれば十両昇進は確実とされた7番相撲で当時十両であった廣川寄り切り、場所後新十両へ昇進新弟子時代からのライバルであった旭國同時に十両昇進果たした格好であった実家帰って報告したら母は泣いて喜んでくれた。新十両の頃、当時大関だった琴櫻出稽古来てたまたま自身指名されたが、2番続けて勝ったため琴櫻ムキになってそこから三重ノ海土俵叩きつけられ転がされなすすべなしであった同年9月場所には新入幕果たした1970年7月場所には新三役となる西小結へ昇進し大鵬玉の海破って初の殊勲賞を受賞したその後幕内上位定着し1971年11月場所には西小結の位置11勝4敗の好成績挙げて初の技能賞を受賞し長谷川貴ノ花輪島魁傑と共に大関候補として大い期待され、これらの力士三角大福あやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ばれた。しかし、1972年から肝臓病が悪化して1973年9月場所から1975年3月場所までは平幕在位した1975年5月場所に関脇復帰し同年9月場所において11勝4敗の好成績挙げ、続く11月場所では当時27歳11か月年齢13勝2敗の成績挙げて初の幕内優勝果たし、翌1976年1月場所において大関昇進した。この場所は「優勝するなんて気はさらさらなかった。そんな気持ちだったら体も動かないしね。自分持っているものを全部だそうと」という気持ち挑んでおり、後年新聞記事で「13日目に2敗同士横綱55代)の北の湖対戦したが、とにかく優勝ではなく北の湖勝ちたい一心だった。左を差し合い一度吊られたが、しのぎにしのいで左からの下手投げ優勝加えて大関見えたからね。もう、神がかってたよ」と述懐している。 ところが、新大関として迎えた1976年1月場所中、8勝7敗と勝ち越す左足首を捻挫。その怪我影響で続く3月場所5月場所それぞれ途中休場したために2場所連続負け越し在位3場所目で大関地位明け渡してしまう。同年7月場所は関脇地位陥落したが、その7月場所関脇10勝を挙げ、1場所で大関特例復帰果たした。しかし、大関復活した1976年9月から1977年11月の8場所の間は、2勝利すら挙げられ大関角番を2回(通算3回経験した大関陥落から大関復帰までについては「成績含め大関として活躍しなければならないという気持ちが強すぎた」と語っており、復帰懸けていた1976年7月場所は「家族にすら伝えてなかったけど、駄目なら引退しようとまで思った」という。また、不成績続いていたことから「クンロク大関」「ハチナナ大関」とマスコミ揶揄されたこともある。それでも大関復帰懸けている時期に「お前の相撲は、オレが一番よく知っている。もうダメだ思ったら、オレ引導を渡す今はまだ大丈夫だ頑張れ」と出羽海から励まし受けたことでやる気取り戻したという。 1978年1月大関12場所目にして初め10勝を挙げ同年中に2勝利を4度記録して復調印象づけた。1979年5月場所では北の湖連勝32止めたのを含めて13勝2敗という優勝次点成績挙げる自身初の綱獲りとなった7月場所では、初日栃赤城敗れるが、ここで「これでもう、綱はないな。あとは2挙げられるように頑張ろう」と気持ち切り替え、そこからは白星重ねて14連勝結果14勝1敗の成績挙げて優勝決定戦まで進出し輪島との優勝決定戦には敗れたものの、優勝同点好成績挙げたことで横綱推挙され当時31歳5か月高齢という遅咲きながら翌9月場所において漸く横綱昇進した大関陥落経験のある力士横綱昇進したのは史上初であり、照ノ富士2021年7月場所後に横綱昇進決めるまで42年唯一の例だった。また、大関時代勝率.594は、戦後横綱昇進した力士としては最も低い勝率だったが、それも照ノ富士(.573)によって更新された。 横綱土俵入り雲龍型選択し指導師匠である9代出羽海親方(元横綱佐田の山が行った。横綱昇進伝達式では「横綱地位けがさぬよう努力します」と口上述べた大関時代不振もあって昇進時に周囲から「大丈夫か」という声が多く聞かれたといい、当時番付には横綱輪島北の湖2代目若乃花大関貴ノ花旭國という面々がいたため、本人も「こんなすごいメンツで常に優勝狙えるのか」と思っていた。新横綱1979年9月場所11勝4敗に留まったものの、同年11月場所14勝1敗・1980年1月場所15全勝と2場所連続優勝達成した11月場所14日目の2代目若乃花戦などはNHK大相撲中継視聴率が39.8%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点2位である(ビデオリサーチ調べ)。しかしその後年齢による体力衰えもあって古傷の左肘の悪化など怪我病気休場多く、2場所連続休場後の1980年11月場所初日から2連敗、同場所3日目現役引退表明した当時年齢329か月)。横綱として15日皆勤した場所は僅か4場所のみで、在位場所数も8場所と短命横綱終わった

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現役力士時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:12 UTC 版)

舞の海秀平」の記事における「現役力士時代」の解説

舞の海入門した時、女将着物雪駄外套揃えてくれ、舞の海本人出羽海新弟子検査合格させてくれると思っていた。しかし1度目新弟子検査不合格だったことを伝えにいった時、出羽海は「そうか、落ちたか」とかすかにほほえみほっとした表情浮かべていた。舞の海はその顔を見てはらわた煮えくりかえりそうであったしばらくしてから酔った勢いで「どうして一度目の新弟子検査助けてくれなかったのか」と師匠詰め寄ったことがあるが、出羽海は「お前はせっかく山形高校就職決まってただろう。そんな小さい体で何も苦労することはなじゃないか。でもな、本当にやる気があるんだったら一度落ちても必ずまた戻ってくる思ってたんだ」と答えた。この時舞の海は「この人目先のことだけではなく1人若者先々までを長く深く考えてくれていたんだ」と知り、熱い感謝思い芽生えた。実は同年2月2日部屋兄弟子にあたる龍興山現役死しており、部屋全体龍興山の死を悲しみながら相撲取り組んでいた状況であった。特に出羽海龍興山の死から10日以上稽古場に姿を現さず、部屋師匠辞めるとまで言い出したほどであった舞の海出羽海詰め寄った際に龍興山死について知らなかったが、後に本人は「若くして未来を失った龍興山の姿が自分と重なって見えていたのかもしれない」と自身評論感想述べている。 出羽海部屋特等床山床安によると、現役時代稽古量が豊富で髪がかなり乱れるほどであった引退近づくにつれて部屋でも巡業でも稽古ままならず元来小柄であることと相俟って親方衆関取衆から陰口叩かれていたという。また、現役時代物陰隠れて痛み止め飲んでいたことは床安以外は他に誰も知らない秘密であったという。一方現役時代申し合い番数少なかったという報道もあり、稽古場で他の力士相撲見て動作確認をすることで技術勝負勘を養ったとする見方もある。 新入幕から3年経過した頃、舞の海目標失って幕内維持すればよいという感覚相撲を取っていたが、入門自身より後で教職員時代ブランクがあった智ノ花のほうが先に三役昇進果たしたことに悔しがり、「同じ三役上がるまでは絶対に辞められない」と胸の内で誓った相撲ライター佐藤祥子によると「現役時代朝帰りくり返していたので、ついたあだ名が、本名からとった“夜明け秀平”。でも、朝まで飲み歩いてばかりいたわけではなく、のちに結婚する奥さんの家によく泊まっていて、朝に帰ってくることが多かったことが由来です」とのこと

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