大相撲入門
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小学校6年生の時の修学旅行で泊まった函館の駅前の江差屋旅館が高島部屋の勧誘を担当していたため、太った体を見込まれて入門を誘われた。中学に入ると間もなく高島親方(元大関・三根山)が北海道の実家まで訪ねたため、他の部屋からも1件勧誘があったがわざわざ家まで来てくれた高島親方のために高島部屋への入門を決意。北海道の7男3女の10きょうだいの六男であったため、入門は自然に決まったという。部屋に入門した13歳の当時身長が158cmしかなく、背がなかなか伸びずに当時設けられていた「身長170cm以上」という基準を満たせず2年近く苦労した。見習い当時正式な力士ではなかったため稽古に参加させてもらえず、部屋内の掃除が終わった午前4時になると部屋の近くの公園で身長を伸ばそうと鉄棒にぶら下がった。最終的にはシリコーンを頭に入れ新弟子検査を受けて合格し、1965年3月場所に初土俵を踏んだ。新弟子検査を受けた1964年年9月場所前を皮切りに、計3回シリコーンを少しずつ注入した。師匠からマンツーマンの厳しい指導を受け、体格に似合った押し相撲を体得。その後は順調に番付を上げていき、わずか4年半で1969年9月場所に十両に昇進した。 「大受」の四股名は、論語衛霊公の「君子は小知すべからず、大受すべし」(君子は小事にとらわれず、大事を任せられる)という一節からとられたもの。 なお、あれほど伸びなかった身長は新弟子検査合格から半年も経過しないうちに4、5㎝伸び、この時ばかりは当の大受も複雑な思いであった。
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大相撲入門
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入門当時からその優れた素質が話題となっており、新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と、新弟子検査担当の親方が驚嘆するほど体作りの基礎ができていたという。四股名貴花田として初土俵を踏み、前評判に違わぬ相撲で数々の最年少記録を打ち立てた。 親方の息子であることからやっかむ者もあり、部屋の番付上位の力士が下位の力士に指示を出して昼寝を妨害することもあったが、トイレにダンベルを持ち込んで黙々と自らを鍛えた。母の藤田紀子は「それに打ち勝つことが稽古より大変なんです」と話している。 1989年11月場所、17歳2か月で新十両に昇進。出世に髪の伸びる早さが追いつかなかったため大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。名大関貴ノ花の息子として兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた。
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大相撲入門
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中学3年生の時、父親に勧められ弟と一緒に貴乃花部屋へ体験入門を行ったことがきっかけで、2013年(平成25年)に貴乃花部屋に入門し、同年3月場所で初土俵を踏んだ。貴公俊という四股名の由来は、当時、部屋の大阪場所宿舎を提供していた後援者である龍神総宮社の祭主の名前(辻本公俊)からである。師匠貴乃花はこの入門を貴公俊の新十両昇進時に「相撲は未経験でも体格がよかったので、おもしろいかなという期待感はありました」と振り返っている。 2015年3月場所で初めて幕下に昇進して以降は幕下に定着。師匠の勧めで、2016年の夏巡業から弟と共に初切を務めたが、貴源治が新十両を決定させた2017年の春巡業を最後に降板した。 一時期は攻め込まれると足腰の動きがバラバラになる悪癖があったが、四股、鉄砲、すり足などの基本動作を繰り返して徐々に克服した。 2017年3月場所では全勝すれば関取昇進の可能性が出てくる幕下15枚目以内に初めて昇ったが2勝5敗で負け越し、しかも貴源治は同場所を幕下筆頭で勝ち越したことで翌場所の新十両昇進を決めたため、嬉しさと同時に先を越されたことの悔しさもあることを露わにした。
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大相撲入門
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大学卒業後の進路については、就職活動をしたこともあったが、日大出身の木瀬親方(元幕内・肥後ノ海)の勧誘を受けて木瀬部屋に入門し、2016年3月場所で初土俵を踏んだ。入門同期生には豊山、朝乃山らがいる。前相撲は2勝1敗で一番出世。初めて番付に名前が載った同年5月場所は、序ノ口で6勝1敗。翌7月場所は序二段で7戦全勝とし、池川との優勝決定戦も制して自身初めての各段優勝となる序二段優勝を決めた。続く9月場所は三段目で7戦全勝とし、他に全勝者がなかったためそのまま三段目優勝が決まった。同年11月場所で幕下に昇進して以降も勝ち越しを続けて、2017年9月場所では西幕下3枚目まで番付を上げたが、7日目(4番相撲)の北磻磨との取組で初めて十両力士との対戦に臨み、叩き込みで勝利したものの、その後3連敗で入門以来初の負け越しとなった。翌11月場所も負け越したが、2018年1月場所からは3場所連続で勝ち越し、5月場所後の番付編成会議で、翌7月場所での新十両昇進が決定した。昇進に合わせて、四股名を「美ノ海義久」に改名した。「木崎」が沖縄の名字ではないため、沖縄の人に素直に応援してもらえるように、沖縄県の方言で「きれい」を意味する「美」を入れ、「義久」は、相撲を始めるきっかけとなった亡くなった祖父の名前を用いた。沖縄県出身の力士としては2002年11月場所で新十両に昇格した琉鵬正吉以来15年8か月ぶり、戦後5人目の新十両。。新十両となった7月場所は序盤から負けが込み、5勝10敗で跳ね返された。その後、翌9月場所から2019年3月場所までの4場所の幕下暮らしを経て5月場所に十両に復帰。復帰を決めた3月場所には自身初となる幕下優勝を果たしている。5月場所は5勝10敗と十両の壁に阻まれ、7月場所も西幕下3枚目で3勝4敗とさらに番付を下げた。9月場所は東幕下6枚目の地位で5勝2敗。この場所限りで引退した日大の先輩・大喜鵬の花道を飾りたい一心で相撲を取っていたという。番付運次第では場所後の十両復帰も有り得たが、11月場所は東幕下筆頭。その11月場所は5番相撲で敗れて2勝3敗と後が無くなったが、残りを2勝して4勝3敗。日本相撲協会の内規により東幕下筆頭での勝ち越しは無条件で十両昇進となるため、これにより2020年1月場所での十両復帰が決定。1月場所は中盤の5連敗もあって一時は3勝6敗と苦しんだが、そこから持ち直して千秋楽に自身初となる十両での勝ち越しを決めた。翌3月場所は番付運に恵まれて一気に5枚上昇の西十両7枚目となったが、中盤以降に負けが込んで6勝9敗と負け越した。 その後は勝ち越しを続け、2021年1月場所は新入幕の見える西十両3枚目で迎えた。この場所は11日目までに7勝を挙げるもそこから連敗。さらに13日目の貴源治戦で、張り手から寄り切られて土俵外に落下。脳震盪のため、翌14日目から休場となった。この脳震盪の影響もあってか、翌3月場所、5月場所と2場所続けて2桁の負け越しを喫し、7月場所では幕下からの出直しを余儀なくされた。西幕下3枚目で臨んだ7月場所は西幕下3枚目で5勝2敗と勝ち越し、場所後の番付編成会議により1場所での十両復帰が決定した。 2022年5月場所中日である同年同月15日は沖縄県の本土復帰50周年記念日であった。美ノ海はこれについて折からのウクライナ侵攻が続く世界情勢も憂いながら「僕らは上の世代から継いできた話しか知らないけど、平和について考える良い機会」と語り「もっと強くなって目に触れる機会が増えれば、沖縄のことを考えるきっかけを与えられる」と奮闘を誓った。
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