大学時代の挫折から大相撲入門に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:52 UTC 版)
「石浦鹿介」の記事における「大学時代の挫折から大相撲入門に至るまで」の解説
高校卒業後は日本大学文理学部に進み、引き続き相撲部に所属する。大学の1学年上には常幸龍が、同学年には山口と英乃海が、1学年下には遠藤がいた。1年次に東日本学生個人体重別選手権の無差別級準優勝、2年次に全日本大学選抜十和田大会3位入賞などの実績を残した。だが大学時代は体重別以外のタイトルとは無縁であり、団体戦にも出場できなかった。石浦も3年途中から食べ過ぎからくる腸の病気を患い自信を喪失し、稽古にも身が入らなくなった。腸の病気によって100㎏あった体重は70㎏にまで落ち、手術するとまず相撲は取れなくなる状況ではあったが、手術は回避できた。しかし医者からはもう太ってはいけないと忠告され、この時点ではスポーツを行うなら太る必要のない競技を行うしかなくなった。それからしばらくして元から好きであった格闘技にも活路を見出そうとしていたが道場に通う15歳の少年や40代の男性に歯が立たなかったことを理由にわずか3か月で挫折した経験もある。父が語るには、負けはしないが打撃がさっぱり当たらなかったという。母は殴る蹴るを行う格闘技には反対しており、大相撲に行ったらどうだと助言していたという。 2012年に大学を卒業した後は一時オーストラリアに語学留学したり、格闘家を目指したりして悩んでいたが同年7月に相撲のオーストラリア国内選手権で優勝した。ちょうどこの頃に山口(当時の四股名は大喜鵬)と高校の1年後輩である貴ノ岩が関取昇進したということもありプロ入りすることを決意した。現地では予てより相撲を教えていたがこれに触発されて留学時代終盤には熱を帯びて指導をするようになったといい、帰国までに四股・腕立て・腹筋を毎日300回ずつこなした上で80kgを切った体重を大量の白米で100kg近くまで増やすことで大相撲に耐え得る肉体を取り戻した。翌月に日本へ帰国し、プロ入りに反対していた父親を「一度きりの人生だから」と言って説得。父の勧めにより帰国後は一旦国体選手になり、鳥取県代表として試合に出場。成績は団体でベスト8、個人でベスト16であった。12月24日に、山口に次ぐ白鵬の内弟子第2号として宮城野部屋へ入門することが発表され、「もう一度相撲を力いっぱい頑張ろうと思った」と語った。2013年1月場所、四股名を本名と同じ「石浦」として23歳で初土俵を踏み、鳥取県出身としては元序ノ口の大田中(中村部屋)以来、実に17年ぶりの力士となった。同期生には阿武咲、爆羅騎らがいる。父は貴乃花と親しかったことと鳥取城北の1学年下である貴ノ岩がいることから貴乃花部屋に頼もうかと思ったが、石浦自身は「どうせいくなら一番強い人がいるところ」という考えで宮城野部屋を選んだという。父は後に「小さい時は、1月生まれで損させてるなってお母さんとよく言ってたんです。4月生まれなら(同じ学年でも)もうちょっと大きな体でやれたのになって。でも、1月生まれだったから、大相撲に行けた」と振り返っている。
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