ミュージシャンとしての活動
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「スクリーミング・ロード・サッチ」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説
1950年代後半にアメリカのロックンロールの影響を受けて音楽活動を開始し、1960年頃にはスクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サヴェイジズを結成した。自らの芸名はアメリカのR&B歌手スクリーミング・ジェイ・ホーキンスを基にしている。なお、ロードはイギリスの伯爵の呼び名であるが、普段シルクハットをトレードマークにしていたことから、同じくシルクハットを被っていた当時のコミック雑誌のキャラクター「LORD SNOOKY」をイメージして用いたといわれている。「LORD SUTCH THE 5TH EARL OF HARROW(サッチ卿・第5代ハーロウ伯爵。ハーロウはロンドン近隣の地名)」と名乗ることもあった(文献によっては「3RD EARL」と名乗ったという記録もある)。 背中にかかる長髪をなびかせながら、ステージでは豹の毛皮を着て頭に2本の大きな角をつけた「ボルネオの獣人」や、シルクハットに黒マントをはおり医療カバンとナイフを持ちながら唄う「ジャック・ザ・リッパー」または「吸血鬼」の扮装で棺桶から登場するという、ホラー的演出で評判を呼んだ。 1961年にEMIより「ティル・ザ・フォローイング・ナイト」でレコードデビュー(2本の角のあるモンスターが主人公のホラーロック)。プロデューサーはジョー・ミークが務めた。続く2枚目のシングルとして「ジャック・ザ・リッパー」(19世紀に実在したイギリスの正体不明の殺人鬼がテーマ)を発表。レコードプロモーションとしてコインを入れてレコードと映画フィルムが見られる「ビデオジュークボックス」が用いられた(フィルムはジャック・ザ・リッパーに扮したサッチが若い女性を襲うホラー映画のような内容であった)。 その後も「ドラキュラズ・ドーター」、「パープル・ピープル・イーター」(アメリカでヒットした曲(邦題「ロックを踊る宇宙人」)のカバー)、「モンスター・イン・ブラック・タイツ」(ヨーロッパでヒットした「ヴィーナス・イン・ブルージーンズ」のパロディ)など、ホラータッチのノヴェルティソングとでもいうべきシングル(いずれも題名はおどろおどろしいが軽快なロックンロール調の曲)を発表。レコードはさほどヒットしなかったものの、ビートルズ・デビュー前の時点で、イギリスで最も稼いでいたライブ・バンドとされている。オリジナル曲以外はロックンロールやR&Bのスタンダードを演奏し、「アイム・ア・ホッグ・フォー・ユー」(リーバー&ストーラーの作品)、「ハニー・ハッシュ」(ジョー・ターナーのヒット曲)、「トレイン・ケプト・ローリング」(ジョニー・バーネットの曲で後に同時期のヤードバーズのカバー曲として有名)などのシングルも発表した。 サッチは自らをロックンロールを唄うヴォードビリアン(芸人)として位置づけており、ブリティッシュ・ビートからブルースロックへとイギリスのロックが変化する中でも、相変わらずロックンロールのみを演奏し続けるなど音楽的な評価は低いものであった。しかし、ステージ重視の観点から、バンドメンバーを選ぶ能力には優れており、著名なところではリッチー・ブラックモア(ディープ・パープル)、ジミー・ペイジ(レッド・ツェッペリン)、ジェフ・ベック(ヤードバーズ)、マシュー・フィッシャー(プロコル・ハルム)、ノエル・レディング(エクスペリエンス)、ニッキー・ホプキンスなどがサヴェイジズのメンバーとしてステージに立っている。特にリッチー・ブラックモアはサッチからこの時にステージングやプロ意識を叩き込まれたといわれている。1960年代にはレコードセールスは振るわなかったものの、有名になった元メンバーを集めて、1970年にアルバム『ロード・サッチ・アンド・ヘヴィ・フレンズ』を発表。ハードロック的な演奏に、サッチのボーカルがマッチしているとはいえず、収録曲もロックンロールの改作や、過去のデモテープを使ったものであったが、レッド・ツェッペリン結成直前のジミー・ペイジとジョン・ボーナムの参加や、ジェフ・ベックがギターを弾く曲が収録されたことで、スーパーセッション的なアルバムとして捉えられ、イギリスとアメリカでスマッシュ・ヒットとなった。この時のアルバム・ジャケットでは、ユニオンジャックにペイントされたロールス・ロイスとともに派手な貴族風衣装を着たサッチの写真が使われた。このアルバムジャケットのイメージにより、アメリカや日本ではサッチが本物の貴族階級出身者であるとの誤解を生むこととなった(イギリスでは当初よりジョークと認識されていたと思われる)。 このアルバムのヒットを受けて、1971年には同名義でライブ・アルバム『ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー』を発表。今回はリッチー・ブラックモア、ノエル・レディング、キース・ムーン(ザ・フー)が参加。サッチ本来の持ち味であるロックンロールのカバーが中心で、オリジナル曲を改作した演劇的な長尺の「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を収録している。1972年にはイギリスのウェンブリー・スタジアムで開催されたロックンロール・リバイバル・ショウに、1960年代初期の人気シンガーのハインツ(元トーネイドスのベーシスト)とともにイギリス代表として出演した(アメリカからはビル・ヘイリー、チャック・ベリー、ボ・ディドリー、リトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイスという伝説的なロックンローラーが出演)。前宣伝として、サッチは髪を緑色に染め、下着姿の女性陣とともにロンドンでパレードを行い警察沙汰となっている。ショウでは、同じく下着姿の女性に担がれた白い棺に入り葬送行進曲に乗って登場し、背丈ほどもある銀色のシルクハットを被り、デビュー曲の「ティル・ザ・フォローイング・ナイト」と「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」を披露した。サッチは当時、アメリカのロック・スターであるアリス・クーパーを、スタイルを真似たとして訴えていたが、スタジアムでの「ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー」演奏時に、ロサンジェルスから招いたという「アリス・クーパー」と言う名前のストリッパーを登場させ、舞台でストリップショウを演じさせている(記録映画「ロンドン・ロックンロール・ショウ」で見ることができる)。 1980年代から1990年代にかけても『ロック&ホラー』『マーダー・イン・ザ・グレイブ・ヤード』『ライブ・マニフェスト』などのアルバムや「ルーニー・ロック」「ロンドン・ロッカー」「ミッドナイト・マン」「ナンバー・テン・オア・バスト」などのシングルを発表。また1960年代のシングル曲を集めたコンピレーション・アルバムも1990年代にイギリスEMIより発売されている。ライブ活動も継続していた(セックス・ピストルズのデビュー・ライブはサッチの前座としてである)。
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ミュージシャンとしての活動
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「バーニー・トーピン」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説
ソロ作品 1971 – Taupin 1980 – He Who Rides the Tiger 1987 – Tribe ファーム・ドッグス 1996 – Last Stand in Open Country 1998 – Immigrant Sons 1971年、トーピンは自身の名前を冠した朗読アルバムを発表した。このアルバムは、デイヴィー・ジョンストンやカレブ・クェイなど、エルトンのバンドメンバーらが即興でシタールを多用した音楽を演奏し、これをバックに初期に書いた詩を読み上げるというものである。A面収録の「Child」は、彼がリンカンシャー南部で過ごした幼少期についての詩となっており、このうちの一節「The Greatest Discovery」は、兄トニーの視点からトーピンの誕生を描いた内容で、エルトンによる曲がつけられたヴァージョンは、エルトンのセカンドアルバム『僕の歌は君の歌』で聴くことができる。また、幼少期に住んだ2軒の家や、兄弟、祖父との関係についても語られている。B面は、マリオネットの自伝や、獲物の犠牲となったねずみ獲りの話など多岐に及ぶ。ただし、インタビューではこのアルバムの内容に満足していないと述べている。 1980年、歌手としては初めてとなるアルバム『ヒー・フー・ライズ・ザ・タイガー』を発表した。このアルバムはチャートインには至らず、トーピンは後のインタビューで、望んでいたようなクリエイティブコントロールができなかったと述べている。1987年には、マーティン・ペイジとの共作『トライブ』をリリースした。シングルとして「Citizen Jane」と「Friend of the Flag」がリリースされ、ミュージックビデオには当時の妻の姉妹であるレネ・ルッソが出演している。 1996年には、ファーム・ドッグスというバンドを結成した。リリースされた2枚のアルバムは、『エルトン・ジョン3』の頃の土臭いサウンドへの回帰を意識しており、作詞はトーピンが担当、作曲はバンドメンバーとの共作となっている。ファーストアルバム『ラスト・スタンド・イン・オープン・カントリー』は、批評家からは高い評価を受けたものの、ラジオ等ではほとんど流されることはなかった。表題曲は、ウィリー・ネルソンとキッド・ロックが2002年のアルバム『ザ・グレート・ディバイド』でカバーしている。1998年には、セカンドアルバム『イミグラント・サンズ』をリリースした。このアルバムに伴って、アメリカの小さなクラブをまわるツアーが行われたが、商業的には成功しなかった。
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ミュージシャンとしての活動
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「THE CRAZY SKB」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説
1982年の中学時代に最初のバンド、恐悪狂人団を結成する。当初はベース担当だった。1983年、殺害塩化ビニールの前身となるインディーズレーベル「人つ目レーベル」を設立し、社長に就任する。1994年、メジャーデビュー寸前に解散したバンドハイテクノロジー・スーサイドの主要メンバーでQP-CRAZYを結成する。ライブハウスで爆竹を炸裂させる、客席に向けて火を放つ、ステージ上で爆竹ボードの上に背中から受け身を取るなどの過激なパフォーマンスを行う。
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ミュージシャンとしての活動
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「小錦八十吉 (6代)」の記事における「ミュージシャンとしての活動」の解説
2000年3月にデビューアルバムの『KMS』を発表。このタイトルは「King Master of Sumo」から名づけられている。このアルバムではR&B・ヒップホップのスタイルに則っており、歌詞は全曲英語である。アメリカのクリーヴランドを本拠地とするラップグループ、ボーン・サグズン・ハーモニー(en:Bone Thugs n Harmony)のメンバー、レイジー・ボーン(Layzie Bone)を迎えた楽曲「リビン・ライク・キングス」、下町兄弟による楽曲「Sumo Gangsta」ではラップを披露している。 2002年3月に公開された映画『ドラえもん のび太とロボット王国』のエンディングテーマ「いっしょに歩こう〜Walking Into Sunshine〜」と挿入歌「ひとりじゃない〜I'll Be There〜」(こちらは「KONISHIKI with 新山千春」名義)を担当した。2002年7月にサザンオールスターズのベーシストの関口和之と共に「関口和之 featuring KONISHIKI」名義でマキシシングル『私の青空〜MY BLUE HEAVEN〜』を発売。スタンダード・ナンバーのカヴァーで、関口はウクレレを、KONISHIKIはヴォーカルを担当。また、2003年のアニメ『星のカービィ』の後期エンディングテーマに「カービィ☆ステップ!」が起用された。 2010年5月26日、小錦八十吉名義で『ドスコイ・ダンシング』を発売。曲自体は1985年頃の現役力士時代に作ったものであったが、相撲に専念するためお蔵入りになっていたという。
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