ミュージシャンとしての特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:29 UTC 版)
「ジミ・ヘンドリックス」の記事における「ミュージシャンとしての特徴」の解説
ジミ・ヘンドリックスの胸像(キェルツェ) ジミ・ヘンドリックスの像(ワイト島) ジミ・ヘンドリックスの蝋人形(マダム・タッソー館・ロンドン) ヘンドリックスは、エレクトリック・ギターの演奏家として非常に高い技術と表現力を備えていただけではなく、画期的な技法の考案によってエレクトリック・ギターという楽器の可能性をそれ以前とは比較にならないほど拡大したと評されている。またメジャーでの活動期間がわずか4年ほどであったにも関わらず、後世のギタリストに与えた影響が比類のないほど絶大であることも合わせ、多くのミュージシャンや評論家から史上最高のロックギタリストと呼ばれている。 一般的にヘンドリックスはギタリストとして語られるが、演奏者として優れているだけではなく作曲家、編曲家、レコーディング・エンジニアとしても独特な才能を備えており、歌手としても表現力に富んでいる。また常に新しいサウンドを模索しギターだけに執着しているわけではなかったと評されている。 ヘンドリックスはブルースとロックンロールを融合させ、クリーム、レッドツェッペリンらと並び、ハードロックの起源の一人と評されている。特にヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった。 奇抜なファッション、派手なステージアクション、機械によるサウンドエフェクトなどにばかり頼っているのでは…という批判もあったが、エリック・クラプトンは「みんなジミのことを語るときに、服装や髪型やステージアクションなど見た目のことばかり言うが、一度目をつぶって演奏に耳を傾けてみればいい。ジミがどれほど優れたミュージシャンであるか分かるはずだ」、あるいは「僕とジェフ・ベックが2人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」と最大級の賛辞を送っている。ジェフ・ベックは「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」と語っている。ヘンドリックス自身「機械ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」と反論している。 ヘンドリックスのプレイスタイルについては、型破りなアクションが取り上げられることも多いが、基本はあくまでブルースやR&Bに根差し、これにジャズのコードやスケールを加えたベーシックなものである。ただし音の選び方やフレーズの展開は非凡なもので、従来のブルースやR&Bの枠に収まらないような画期的な内容だった。 ヘンドリックスは非凡なインプロヴィゼーション能力によって、「Red House」や「Machine Gun」など、アドリブが曲の大部分を占める曲で、ライブごとに全く違ったアドリブを展開していった。これは、「指癖的な小さなフレーズ(リック)を沢山覚えておき、それらを組み合わせてアドリブを構築する」のではなく、「その瞬間に頭の中で鳴った(聞こえた)フレーズをギターで弾く」というアドリブのとり方を行っていたから、という説がある。 作曲面においても後にロックのスタンダードとなる数多くの楽曲を残した(特に「Purple Haze」「Little Wing」「Voodoo Child(Slight Return)」「Red House」「Fire」「Foxy Lady」などの曲は、多数のミュージシャンによってカバーされている)。 ヘンドリックスはギターの音質を電気的に変化させる機材(いわゆるエフェクター)を多用することで知られた。スタジオ録音はもちろんステージでもエフェクターを使用し、従来のギタリストでは考えられなかったほど音質に豊富なバリエーションをもたせている。主に使用していたのは音を歪ませるファズ、踏み加減で音質が連続的に変化するワウペダル、音を波立たせるユニヴァイブといったものだった。ヘンドリックスは手に入れたエフェクターの可能性を探ろうと何時間も演奏を続け、そのエフェクターの設計者ですら想定していなかった斬新な音を引き出していた。その結果ヘンドリックスの演奏の中には、どういう方法で出したのか今もって不明な、謎のサウンドが非常に多い。これはスタジオ録音だけではなく、ライブでも同様である。エフェクターなどの電子機器設計の達人だったロジャー・メイヤーが、ヘンドリックスのアドバイザーだったのも大きな意味を持っている。ただしヘンドリックスの存命中などには「機械に頼っていて邪道」という批判も存在した。 ヘンドリックスはギタリストであると同時に歌手でもあるが、ずっと「自分は歌が下手だ」と卑下し続けていた。そんなヘンドリックスにとってのヒーローは、独特の歌唱法でフォーク/ロック界を席巻したボブ・ディラン。ディランの歌を聴いたヘンドリックスは「これなら俺も歌えるかも知れない」と勇気づけられたという。ヘンドリックスはディランに大きな影響を受けており、「Like a Rolling Stone」や「All along the Watchtower」などをカバーしている。ヘンドリックスが「All Along the Watchtower」のカバーをシングル・ヒットさせたことを受け、ディランは「あの曲は俺が書いたが、権利の半分くらいはヘンドリックスのもの」と語っている。1985年には「おかしなもので、自分がこの曲を歌う時、いつも彼(ヘンドリックス)に献げているような気分になるんだよ」と語っている。ディランはヘンドリックスのアレンジに近い形で同曲を演奏し続けている。 エリック・クラプトンは「ジミは『俺は歌が下手だ』と謙遜しているが、とんでもない。ギターだけではなく歌もとてもうまいよ」と述べている。 ヘンドリックスは音楽の理論などに疎く楽譜もほとんど読めなかったと言われるが、ジャズ系ミュージシャンとのセッションでも引けを取ることはなかったと評されている。帝王マイルス・デイヴィスやジョン・マクラフリン(ギタリスト)に才能を絶賛されていたほか、マイルス作品の編曲などで知られる巨匠ギル・エヴァンスもヘンドリックスとの競演を熱望していた 。ギル・エヴァンスはヘンドリックスの死後、カバー・アルバム「The Gil Evans Orchestra Plays the Music of Jimi Hendrix」を発表。1988年に亡くなるまで、ステージでヘンドリックスの曲を演奏し続けた。エヴァンス曰く「ジミのアルバムを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」。
※この「ミュージシャンとしての特徴」の解説は、「ジミ・ヘンドリックス」の解説の一部です。
「ミュージシャンとしての特徴」を含む「ジミ・ヘンドリックス」の記事については、「ジミ・ヘンドリックス」の概要を参照ください。
- ミュージシャンとしての特徴のページへのリンク