ミュージシャンとしてのドリフ
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「ザ・ドリフターズ」の記事における「ミュージシャンとしてのドリフ」の解説
「新生ドリフ」はカバー曲や替え歌が主体のため、コミック・ソングとしては、「クレージーキャッツ」より低く見られがちだが、初期の多くの曲を手がけたなかにし礼の作詞と川口真のアレンジは、独自の「ドリフ・ミュージック」を作り上げた。 1966年6月30日と7月1日、ビートルズ日本公演の前座を務めた(7月2日は出演せず)。僅か1分15秒の出演時間ではあったが、前座用のステージではなく、ビートルズと同じメインステージで演奏した(ただし、加藤のドラムセットはリンゴ・スターのものとは隔離されていた)。これをきっかけに、ドリフが注目されるようになる。なお、加藤茶は、ビートルズの前座はしたものの、警備が厳しくビートルズのメンバーには会えなかったと語っているが、いかりやは自著で(ドリフ側が)舞台から退場するときにすれ違ったと記している。なおIN JAPAN 1966 50TH ANNIVERSARY EXTRA EDITIONによると『のっぽのサリー』が演奏されたのは開場から2曲目である。音楽之友社から出版された「POPS」1966年8月号の特集「熱狂の三十五分」のP31~によると6月30日の開場のベルは予定より5分遅れの6時35分でビートルズの到着が6時41分なのですれ違うことは可能である。またこの時のドリフの出番はTHE BEATLES IN JAPAN : 50TH ANNIVERSARY EDITIONによるとブルージーンズの後で尾藤イサオの前だが上記の特集にはこの後6時53分前後にもドリフターズ→ブルージーンズの順にステージに上がった旨が記されている為、映像には残っていないがドリフターズの出番が存在したことになる。 「新生ドリフ」以降は歌謡グループとしての活動も顕著となり、コミックソングのほか、民謡・軍歌等、日本で歌い継がれてきた曲の替え歌を多くレコードに吹き込む(ディスコグラフィーの項参照)。67年3月の春だ若さだ、全員集合で舞台初主演。またこのころ東宝松竹日活から主演映画の話を持ち掛けられていた、後に東宝松竹で主演映画を多数制作。 1970年に「第12回日本レコード大賞大衆賞」を受賞し、同年「ドリフのズンドコ節」で「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞している。「ズンドコ節」は、1969年11月1日発売、オリコン最高位2位、売り上げ枚数115万枚以上という、大ヒットを記録。他にも、数十万枚のシングルヒット、または10位以内にランクインした曲は4-5はある。その1970年には、他の民放などでもいくつかの賞を受賞をする。この年の『第21回NHK紅白歌合戦』に出場が内定していたが、加藤茶の交通事故により出場を辞退した。 後述の通り、新生ドリフになった後は、グループの活動はお笑いが中心となったが、音楽活動は各メンバーごとに継続されており、全く音楽活動を休止した訳ではなかった。1990年代以降は、加藤、仲本、高木が『こぶ茶バンド』を結成する形でバンド活動を再開している。 2001年12月31日の『第52回NHK紅白歌合戦』にて、ドリフは正式な出場歌手として初出場を果たした(メンバーが応援で出演したことは過去にもあった)。同年8月に放送された、『第33回思い出のメロディー』に出演したことがきっかけで選出となり、往年のヒットメドレーを披露した。
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