レッド・ツェッペリン結成
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「ジミー・ペイジ」の記事における「レッド・ツェッペリン結成」の解説
バンドの継続に意欲があり、また契約も残っていたペイジは、新メンバーを集めようと試みた。 当初ボーカリストには、スティーヴ・ウィンウッド、もしくはスティーヴ・マリオットを加入させようとしたのだが、共に既に他のマネジメントとの契約で上手く行かず(ただ、この2人のスカウトはこのレッド・ツェッペリンにではなく、それより以前に「キース・ムーン或いはジョン・エントウィッスル考案のレッド・ツェッペリン」に対してなされたものであると言う指摘もある)、次にテリー・リードを起用しようとしたものの加入は叶わず、リードの推薦で元バンド・オブ・ジョイのロバート・プラントをボーカリストに決定。ドラマーはプラントの強い勧めによりジョン・ボーナムが加入した。ベーシストにはセッション・ミュージシャンとして親交があり、技量も折り紙つきであったジョン・ポール・ジョーンズが決まった。レッド・ツェッペリンが誕生し、1969年にファースト・アルバムを発表した。70年代には「ホール・ロッタ・ラヴ」「ブラック・ドッグ」「ロックンロール」「デイジャ・メイク・ハー」「トランプルド・アンダーフット」などの代表曲があった。 グループ名の由来や、その他のツェッペリンの活動については、レッド・ツェッペリンの項参照。 1971、72年に来日公演を果たしており、71年の広島公演に際してメンバーは平和記念資料館を訪れ、ペイジは「二度と戦争は起こしてはいけない」と涙ながらに語っている。同公演(9月27日)は100%慈善公演で、メンバー4人は広島市役所を訪問し、当時の山田節男市長に被爆者援護資金として当時の金額で約700万円寄贈の目録を手渡している。席上ペイジは「原爆を落としたのは誰が悪いというのではなく、我々人間の仲間が起こしたことです。同じ人間としてその事実は申し訳ないと思います。そこで少しでも苦しんでいる人達のために自分達が力になれたらと思いました。」とのコメントを発し、同市長からはツェッペリンのメンバー達に感謝状と、記念として名誉市民章のメダルが授与された。 ただしその公演後、大阪の宿泊先で酔ったメンバーは、日本刀を振り回して掛け軸を斬るなど、数百万単位の損害を与えた。 レッド・ツェッペリンは1980年、ジョン・ボーナムの死去により活動を停止した。
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