レッド・ツェッペリンとしてとは? わかりやすく解説

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レッド・ツェッペリンとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 22:25 UTC 版)

ロバート・プラント」の記事における「レッド・ツェッペリンとして」の解説

詳細は「レッド・ツェッペリン」を参照 1968年8月、ニュー・ヤードバーズ結成のためにボーカリスト探していたジミー・ペイジが、最初に加入打診していたテリー・リードから推薦されバーミンガム近郊大学歌っていたプラントを見に来る。ペイジプラント歌唱圧倒されすぐさまバンド加入持ちかけた。ペイジその時の様子について「彼ほどのボーカリスト無名のままなんて信じられなかった。人格的に欠陥があるかとても仕事をやり辛い人間んじゃないかと思ったよ」と振り返っている。プラント加入すると共に空席だったドラマー旧知ジョン・ボーナム推薦メンバー揃ったバンド同年9月よりスカンジナビアからツアー開始10月15日以ってバンド名をレッド・ツェッペリン改める。 ツェッペリンはその勢いをもって米・英双方チャート席巻バンド知名度と共にプラントボーカリストとしての地位上昇していった。プラントはそのルックス、声、ステージパフォーマンスから70年代代表するセックスシンボル称された。特に、70年代前半ステージでは、女性ものの服やインド中近東風の服の前をはだけて歌う姿は、その金色長髪あいまってロック界のアイコン象徴)」と言われていた。 ツェッペリンとして活動していた1969年から1980年の間、プラント課外活動をほとんど行わなかった。唯一音源として残っているものに、1979年12月行われたカンボジア救済コンサート出演時にロックパイル伴奏バック歌ったものがあり、これは『コンサート・フォー・ザ・ピープル・オブ・カンボジア』(1981年発表)に収録されている。 順風満帆見えたツェッペリンだったが、1970年代後半さしかかる暗雲たちこめるうになる1975年家族と共にギリシャロドス島休暇取っていた時、運転していた車が木に激突し足首骨折子供達軽傷だったが妻のモーリーンは頭蓋骨骨折という重傷負ったツェッペリンの7目のアルバムプレゼンス』は、プラントがまだ完全には回復してない中での制作となったが、本作での歌詞プラントによれば事故の前後の状況描いたものになっているという。さらに1977年7月息子カラックを突然の病で失うという悲劇にも見舞われる当時ツェッペリン全米ツアーであった残り予定全てキャンセルされた。なお、これがツェッペリンにとって最後アメリカでツアーとなったプラント悲嘆深く当時は「全て放り投げて全く違う人間になってもいい」とさえ考えていたという。 その後何とか復活するも、1980年ジョン・ボーナム急死により、ツェッペリンその活動幕を閉じた

※この「レッド・ツェッペリンとして」の解説は、「ロバート・プラント」の解説の一部です。
「レッド・ツェッペリンとして」を含む「ロバート・プラント」の記事については、「ロバート・プラント」の概要を参照ください。

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