解散後とソロ・キャリア
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「ロバート・プラント」の記事における「解散後とソロ・キャリア」の解説
解散からしばらくは隠遁生活に入ったプラントだったが、1981年3月には新たなバンド、ハニードリッパーズを結成。小さなクラブでギグをこなすという活動を続ける。1982年6月、1stアルバム『11時の肖像』をリリース。ツェッペリン時代のハードロック・スタイルに別れを告げ、新たなスタイルの音楽に着手する。その後も1983年に『ザ・プリンシプル・オブ・モーメンツ』、1984年にはハニードリッパーズ名義の『ヴォリューム・ワン』、1985年には『シェイクン・アンド・スタード』と、矢継ぎ早に新作を発表し続けた。ツェッペリン時代のビッグヒットには及ばないものの、1990年までの全アルバムは全米20位以内につけるヒット作となっている。 1985年、レッド・ツェッペリンとしてライヴ・エイドに出演。当初はプラントのソロでの出演予定だったが、このコンサートの提唱者のボブ・ゲルドフからゲストとしてペイジとジョン・ポール・ジョーンズを呼ぶ事を提案、これを了承し、1日限りのツェッペリン再結成の運びとなった。ドラムにはトニー・トンプソン、ジョーンズがキーボードを弾く事を望んだため、ベースにはポール・マルティネスが加わった。このコンサート最大の喝采を浴びたが演奏自体は上手くいかず、特に「天国への階段」で、プラントがペイジのギターソロ後の歌い出しのタイミングを間違えるというミスを犯してしまう。プラントはライヴ・エイドでの演奏について「まるで闇雲に自分の尻尾に噛みつこうとしてる犬みたいだ」と振り返っている。その後、プラントはペイジと1988年の4作目のソロアルバム『ナウ・アンド・ゼン』と同年のアトランティック・レコード40周年記念ライブ、1990年のネブワースでのコンサートで共演している。 1994年、ペイジとプラントが再会、ジミー・ペイジ & ロバート・プラントとしてMTVアンプラグドに出演する。同番組ではツェッペリンのナンバーをリアレンジし、さらに新曲数曲を追加して披露した。この模様は同年に『ノー・クォーター』と題し、アルバム、映像作品として発表された。翌1995年よりペイジ・プラントとして本作的な世界ツアーを敢行、1996年まで続いた。 1998年、ペイジ・プラントとしての新作アルバム『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』を発表、それに伴うツアーを同年2月より開始した。しかし1999年2月をもってプラントが突如ペイジ・プラントとしての活動停止を宣言し、再び二人はソロ活動に戻った。2001年からはロバート・プラント & ストレンジ・センセイションとして精力的に活動を続けている。 2005年、慈善事業を称えられ大英帝国勲章の役員に任命され、2009年にはポピュラー音楽への奉仕に対して大英帝国勲章の司令官(コマンダー)として表彰された。 2007年10月には、ブルーグラスカントリー・ミュージックシンガー、アリソン・クラウスとのコラボレーション・アルバム『レイジング・サンド』をリリース。2008年5月末まで、彼女とライヴを行う。このアルバムの収録曲「Gone Gone Gone(Done Moved On)」は、第50回グラミー賞のベスト・ポップ・コラボレーション・ウィズ・ヴォーカル部門を受賞した。2007年12月、ロンドン・O2アリーナに於いて、アトランティック・レコードの創設者、故・アーメット・アーティガンの追悼チャリティ・コンサートのためにレッド・ツェッペリンとしてステージに上がる。 2009年2月8日の第51回グラミー賞でも、前年に引き続き『レイジング・サンド』がノミネートされ、主要5部門のレコード・オブ・ザ・イヤー及びアルバム・オブ・ザ・イヤーを始め、5部門で受賞した。また同年、音楽界への貢献が認められ、CBEを授与されることが発表された。同年7月10日、バッキンガム宮殿にてチャールズ皇太子から授与された。 2010年、自身のアマチュア時代に組んでいたバンド名を冠した新作アルバム『バンド・オブ・ジョイ』をリリース。全英3位、全米5位の好成績を残す。第53回グラミー賞の「最優秀アメリカーナアルバム賞」にもノミネートされた。
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