解散後1986年以降
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「カジャグーグー」の記事における「解散後1986年以降」の解説
ニックは1987年3月、サイモン・エリス(キーボード)とオースティン・ハワード(ボーカル)と3人で、Ellis, Beggs & Howardを結成、BMGと契約し、88年6月、1stシングル「Big Bubbles, No Troubles」(英国59位)を発表する(この曲はドイツ、オランダでヒットし、その後6種類のリミックスが発表された。またニックは公式サイトの中で「この曲が今までで1番気に入っている」と書いている)。同年8月、2ndシングル「Bad Times」、11月には3rdシングル「Where Did Tomorrow Go?」発表。4thシングルには「Big Bubbles, No Troubles」をYouthがミックスし直した「Bubbles」を発表、4枚目発表時にバンド名をEBHと改名、その後ライブを中心に活動を続け、1992年5枚目のシングル「Chocolate Coated Money」を最後に解散する。しかし、解散後の1995年4月に1stアルバム『Homelands』を発表している。 また、ニックの自主製作で1991年から1992年の間に作ったEllis, Beggs & Howardの未発表曲を中心としたアルバム『The Lost Years Vol.1』(原題:Clicks, Pops & Drop outs)を自身のレーベルFlying Saucer Musicから売り出した。 活動休止をしていたリマールは一時期、アリスタと契約していたが結局レコードは発表せず、この頃仕事も少なめだったリマールが職業安定所に通う姿も見られたが、その後自身の事務所Lamhil Musicを設立し、1991年、久々にBassline Featuring Limahlとしてシングル「Stop」と「Maybe This Time」をドイツで発表、その後もイギリスではメジャー契約をしないまま、1992年にリマールの名前でシングル「ラブ・イズ・ブラインド -愛の行方-」を発表(このシングルには楽器のリース業を始めていたジェズがクレジットに載っている)。さらにはカジャグーグー時代のヒット曲「君はTOO SHY」をリメイクし、元曲の「Shy Shy」の歌い方にAOR調のアレンジを加えた「Too Shy '92 Remix」を発表した。そして1992年末に、4枚のシングルを入れた3rdアルバム『Love Is Blind』を発表。 その後のリマールは自身の活動の他に、キム・ワイルドのアルバム作りにも参加しつつ、それとは別にGuy Phetheanと組んだプロデュースチーム「Jupiter」を結成し、1994年にSylvia Mason Jamesをボーカルに据えたシングル「Destiny」を発表、さらに1996年にはGuy Phetheanとの共同名義でShy Guy Featuring Limahlの名前でシングル「Walking In Rhythm」を発表、この曲はリマールのアルバムには入っていないレアな曲となった。 一方ニックはその後、アイリッシュ・バンドのアイオナ (Iona)にベーシストとして参加。アルバム『ケルズの書 (The Book Of Kells)』と『ビヨンド・シーズ・ショアーズ』の2枚に参加して脱退する。その後は、デュラン・デュランのギタリストであったウォーレン・ククルロのソロ・アルバムや、EBHのSimonやギターのPaul Harveyと共にゲイリー・ニューマンや、ベリンダ・カーライル、D:reamなど様々なアーティストのプロデュースや、セッションプレイヤーとして参加しながら、雑誌「Bass Guitar Magazine」のスタッフライターとしても活躍していた。また、1996年には日本のアーティストCoziのプロデュースに全面協力し、ミニ・アルバム『Naked Sun』のベース全般と、「Babylon」では作詞を、「SPACE HITCH-HIKER」では日本語でバック・ボーカルも披露している。 ジェズは脱退後、ロンドンで楽器のリース業「Atlantic Hire」を経営していて、解散以来ドラム・スティックは握っておらず、他のメンバーとも交流が無いらしい。 スティーヴは1986年に、Andy Fitzgerald(ボーカル)とPaul Turley(ドラム)と3人でSmalltown Elephantsを結成、UKポリドールと契約し、a-haのUKツアーの前座を勤めながら同年6月にシングル「Walking On Ice」を発表(レコード会社とのトラブルでアルバムデビューはできずに解散した)。その後、Baby Boomerangや、Christmas Islandを結成したが、現在は1994年に自身の音楽制作会社「Protec Music」をLeighton Buzzardに設立、他のアーティストとのプロデューサー業や、ギター講師、Lu Cozmaとのプロジェクトの傍ら、ニックのソロ活動も支援している。また、1998年にアール・ヌーヴォー時代のシングル「Fear Machine」をリメイクし、自身で歌った「Fear Machine 2000」を作成してインターネットで配信していた(スティーヴはこの曲でニックの歌い方を真似し、それを聴いたニックは大変気に入ったそうだ)。今では時々、ベースプレイヤーとしてスチュワートや地元の音楽仲間と「Malachi」というカバーバンドでプレイしている。 スチュワートはカジャ解散後にソロ名義の活動を行ったがどれも上手く行かず、Helen Shapiroと組んだ際にはギタープレイヤーとしての才能を見出したが、財政的な問題が生じた結果、音楽業界から引退した。その後、地元のレイトン・バザードに戻り、「Read Soft」というIT企業でソフトウェアのセールスをしながら、時々スティーヴや地元の音楽仲間と「Malachi」というカバーバンドを組んでいる。 1998年頃イギリスでは80'sミュージックのブームが訪れ、カルチャー・クラブや、スパンダー・バレエなどいくつかの1980年代に活躍したバンドが再結成や、期間限定でライブ活動を行った。その当時、活動が下火になっていたリマールも「カジャグーグー再結成」を画策して準備を進め、他のメンバーにも何度かオファーを掛けていた中、映画『ウェディング・シンガー』のサントラに「君はTOO SHY」が使われることになり、再結成の話が現実味を帯び始めた。しかしニックがそれを嫌い、一度目の話は結局流れてしまった(当時ニックはリマールを解雇したことで、本当の解雇理由を知らないファンからマイナスイメージを持たれ、そのことで傷つき、あるTVのインタビューでも「もうカジャの頃には戻りたくない」と語っていた)。ただ、リマール自身その計画を無駄にはできず、1999年に以前作ってお蔵入りになっていた新曲「Rhythm Of Love」と「Lost In Love」の2曲と、カジャ脱退後の曲をリマール自身が歌い、それらを加えたものをベストアルバムとして発表した。また、同年に『12 Of Pleasure』というコンピレーション・アルバムに「Then Suddenly」という曲も発表した。 その頃ニックは1997年頃からジョン・ポール・ジョーンズや、ハワード・ジョーンズのツアーに参加する様になり、2000年にはハワード・ジョーンズのリメイクベストアルバム『Perform.00』(※日本盤タイトルは『メタモファシス (Metamorphosis)』)のレコーディングとツアーにベーシストとして参加した。また、以前から計画していたチャップマン・スティックを使ったアルバムの製作に取り掛かり、20曲を完成させ、2000年5月に初のソロ・ライブを行い、翌年5月にその中の15曲を収録したアルバム『Stick Insect』を自主製作第2弾として発売した。その後、雑誌「Guitarist」の企画で新楽器Chapman NS Stickのデモ曲を作曲、雑誌の付録として、正式なタイトルも無い「Chapman NS Stick Demo」(※後にタイトル「Do Wot You Want」)を披露した。 2001年3月、リマールは1980年代映画の主題歌を歌うミュージカルに参加、そのステージを収録した『What A Feeling II』が発表され、他のアーティストと一緒に「007/美しき獲物たち (A View To A Kill)」や「ネバーエンディング・ストーリーのテーマ」など数曲を聞かせている。 2002年、ニックはジョン・ポール・ジョーンズや、他のアーティストのアルバム製作に参加しながら6月に、以前日本のFM局が放送したテープを元に、1984年9月のツアーファイナルの東京公演を収録した『Kajagoogoo Live In Tokyo 1984』を自主製作第3弾として発売、そして8月にはスティーヴの友人で、カジャのウェブサイトを主催するKen Tidyが『Art Nouveau Live』と、スティーヴのバンドの『Smalltown Elephants 1986-1988』を自主製作で発表した。一方、リマールは久々の新曲「Love That Lasts」を9月に発表した。 2003年6月、スティーヴの所でギターを習っていたヘイリー・ボニックの音楽学校卒業制作にニックが加担して新たなバンドプロジェクトを企画、ボーカルを全英の音楽学校から選考してアレックス・スタンプをボーカルとして加えてインダストリアル・ソルトと名づけたバンドプロジェクトを開始した。そして、ニックとスティーヴは共同でプロデュースとバンドのサポートメンバーを勤めた(インダストリアル・ソルトの名前はある日、ヘイリーが宿題をしている時に化学の教科書から拝借したもの)。
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