レッド・ツェッペリンのバージョン
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「Tone duh bell easy」の記事における「レッド・ツェッペリンのバージョン」の解説
レッド・ツェッペリンは、6作目のアルバム『フィジカル・グラフィティ』(1975年)でこの曲を採り上げている。タイトルはディランのバージョンに近い「In My Time of Dying」(邦題もディラン同じく「死にかけて」)となっている。ただ、歌詞の大半を流用しているとは言え、音楽自体は彼らオリジナルのものであり、そのためかこの曲の作者クレジットはメンバー4人のものとなっており、バンドのオリジナル曲として扱っている。11分4秒という演奏時間は、彼らのスタジオ収録曲の中で最も長い。 レコーディングは1974年、ヘッドリィ・グランジにロニー・レイン所有の移動スタジオを持ちこんで行われた。ジミー・ペイジはディラン同様、曲の全編にわたりスライドギターを弾いているが、原曲とはかけ離れたヘヴィなハードロックに仕上がっている。オーバーダビングはされておらず、明らかに差し替えられているギターソロの部分を除き、スタジオライブ録音と見られる。ギターやボーカルよりも主張するドラムスの音は、『レッド・ツェッペリン IV』(1971年)収録の「レヴィー・ブレイク」と同じく、ヘッドリィ・グランジの広々とした廊下でディスタンス・マイクを使用し、建物の音響効果を活かして作られたものである(ペイジ曰く、多少のエコーをかけているという)。曲の終盤が即興演奏的になっているが、ペイジによればスタジオ入りした時点では曲のエンディングを考えていなかったのだという。演奏後には、バンドとスタッフの会話が聞こえる。 後に交通事故で瀕死の重傷を負ったロバート・プラントは、それ以降この曲を歌うのを躊躇するようになったという。プラントは「何が楽しくてこんな歌を歌わなきゃならんのだ」というコメントも残している。
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