現役前半とは? わかりやすく解説

現役前半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:37 UTC 版)

槙原寛己」の記事における「現役前半」の解説

入団1年目二軍での体作り専念したため登板機会無かった。150km/hを超える速球派投手として球団から期待される。秋の阪神とのオープン戦好投し自信をつけた。 1983年、春のグアムキャンプの一軍メンバー選抜される。ここで監督藤田元司から大きく曲がるカーブ教わり速球生かせようになったキャンプから若手成長株として評価され一軍に初昇格して活躍した同期生吉村禎章1歳年上駒田徳広とともに背番号にちなん50番トリオ呼ばれた開幕一軍入りを果たすと、4月16日の対阪神2回戦甲子園球場)に一軍初登板で初先発すると、延長10回を5安打9奪三振1-0完封という鮮烈なプロデビュー飾った4月24日の対ヤクルト戦先発しプロ入り2試合連続完投勝利した先発ローテーション入り果たし12勝1セーブ(9敗)の成績挙げチームリーグ優勝貢献記者投票213票、それ以外は「該当者なし」1票、「無効」1票という圧倒的な票を集め新人王選出された。 同年西武ライオンズとの日本シリーズでも第3戦、第6戦に先発登板した後楽園球場での第3戦は、2-1リードした6回表にテリー・ウィットフィールド1号3ラン打たれ、5回1/3を4失点西武球場での第6戦は、1回表原辰徳の適時打1-0リードしていたが、5回裏に石毛宏典三塁打、6回大田卓司1号本塁打打たれ1-2逆転され、6回2失点いずれも勝ち負けはつかなった。 1984年ストレート最高球速ボール球ながら155km/hと当時日本最速スピード記録翌年西武ライオンズ入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年記録した155km/hは終速表示であったため「日本人最初に160km/hを記録するのは槙原では」とさえ言われていた。同年日米野球では、槙原ボルチモア・オリオールズ主砲エディ・マレー対決しマレーに超特大場外本塁打被弾するが、後に自分完璧に投げて、それでも打たれ本塁打だったと述懐している。 1985年4月17日の対阪神タイガース2回戦阪神甲子園球場)で佐野元国バッテリー組み、7回表にクリーンナップであるランディ・バース掛布雅之岡田彰布に3者連続バックスクリーンへの本塁打バックスクリーン3連発)を喫した。それから2か月後の6月28日の同カード13回戦に先発しチーム球団記録となる1試合8本塁打記録自身球団通算5000本塁打となる現役生活唯一の本塁打打ち大量14点援護点もあり1失点完投勝利した。ところが、降雨ノーゲームとなった7月14日の対阪神16回戦の1回表にランディ・バース打球右足スネに当たり、撥ね返った打球を捕りにいくときに転んで左股関節骨折重傷負いその後シーズン棒に振った1986年イースタン・リーグ調整登板重ね、5試合登板して33回を投げ36奪三振、6失点、また2日金沢での西武戦完封するなど「怪我後遺症なくなった」と判断されたため、5月4日10か月ぶりに一軍登録された。5月11日の対広島6回戦先発し前年7月14日以来300日ぶりに復帰登板したが、3回2/3、6失点降板した。後半戦は、8月に4勝1敗、3完封防御率0.63で月間MVP受賞するなど、投手陣としてチーム支え広島東洋カープとの優勝争い原動力となっていた。しかし、10月7日の対ヤクルト26回戦ではマーク・ブロハード逆転本塁打打たれ広島首位浮上し巨人2位転落する痛恨敗戦となり、12日広島リーグ優勝決め巨人広島僅差2位終わった現役引退時に、「一番悔しかった試合として阪神戦での3連続被弾ではなく、この試合挙げた1987年は、新人王獲得した1983年以来4年ぶりに2となる10勝(6敗)を挙げチーム4年ぶりのリーグ優勝貢献西武との日本シリーズでは第4戦に先発し、3安打11奪三振完封しシリーズ勝利を挙げたシリーズは2勝4敗で西武敗れたものの、優秀選手賞受賞した1988年は、プロ入り初め年間200イニング突破した208回1/3)。また、当時リーグ連盟表彰対象ではなかったが、リーグ最多187奪三振記録した1989年は、開幕から先発とともに登板合間にはリリーフ兼ねるなど、オールスターゲーム前までに12勝3敗4S防御率1.75という活躍見せた。しかし、後半戦開始となった7月29日の対広島15回戦で、2回裏一死後、植田幸弘へ3球目を投げた後に軸足の右膝をひねったため降板31日東京慈恵医大病院での精密検査で右膝内側半月損傷判明し治療のため残りシーズン棒に振ったチーム2年ぶりのリーグ優勝果たし槙原リハビリ終えて近鉄バファローズとの日本シリーズ出場資格選手入りした。10月24日第3戦に3番手で登板し、約3か月ぶりに実戦登板果たした1990年も、前年怪我尾を引いていた。4月に2勝したものの、その後打ち込まれる試合続き5月末に不調による再調整と足に打球受けた治療理由二軍落ちした。夏に復帰し、それから調子上げたが、この年公式戦最終戦10月10日の対広島26回戦に先発する敗戦投手となって9勝に終わりシーズン序盤不調影響4年ぶりに規定投球回到達できなかった。西武との日本シリーズでは、終盤好調さを買われ第1戦の先発起用されたが、その初回西武オレステス・デストラーデに、カウント0-3からの4球目が「ボール気味に投げたつもりが、ど真ん中となって1号3点本塁打打たれた。西武無傷の4連勝日本一となり、このデストラーデ本塁打は「シリーズ流れ決めた本塁打」と評された。 1991年7月19日対中14回戦に先発し、7回まで8-0大量援護点を貰いながら、その裏1失点、8回に一死満塁ピンチに二点適時打打たれた所で降板させられる。しかし、救援した木田優も失点重ね中村武志代打満塁本塁打打たれ同点、そして延長10回にまたも中村サヨナラ本塁打打たれて、球団史上初の8点差からの逆転負け喫したオールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発したため、第2戦では登板予定がなかった。しかし、第2戦(広島市民球場)が延長戦突入し、他チーム選手無理に引っ張ることのできなかった全セ監督藤田元司槙原登板させたが(控え巨人投手槙原かいなかった)、槙原ビジターゲーム勘違いしていたため、ホームユニフォーム忘れてしまい、ユニフォーム同じデザインTシャツ投げるはめになった。これを最後にNPBオールスターは、延長戦なし・9回打ち切りとなっている。 1992年は、開幕から順調に勝ち星伸ばし前半戦だけで10勝(5敗)し、3年ぶりの2勝利を記録するが、オールスター後は2勝8敗と調子落とし自己最多タイ12勝を挙げる一方で負け数が132年連続負け越してしまう。

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現役前半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 05:08 UTC 版)

今中慎二」の記事における「現役前半」の解説

1989年近藤真一上原晃の例に倣いキャンプからオープン戦の期間は二軍ランニングなど体力強化守備練習明け暮れた新宅洋志稲葉光雄指導受けてフォーム修正体力向上取り組み早くも5月26日にはナゴヤ球場での対巨人戦一軍初登板を果たした9月17日広島での対広島戦では先発し北別府学投げ合い、2回にマメ潰しながらもアロンアルフア固めて5回を投げプロ勝利を挙げたオフ秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチ来ており、当時MLB流行していたスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークボール習得した1990年キャンプ投手コーチ池田英俊フォロースルーなどを指導されストレート伸び変化球キレ改善したまた、シンカー習得にも挑戦した3月4日守備練習ノックの球をヒザ当ててノースローの調整続いたが、3月24日豊橋行われたダイエーとのオープン戦では村田勝喜投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点好投見せた開幕後将来の左のエースとして期待かけられ、主に先発として起用された。当時はまだ漫然と投げるようなところがあったものの、先発ローテーション定着し、6完投など規定投球回達して10勝を記録している。 1991年オールスターゲーム初め出場し、第2戦の7回から2イニング投げ1安打失点抑えている。同年佐々岡真司との最優秀防御率争いシーズン最終戦ダブルヘッダー連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトル逃した1992年4月19日の対巨人戦ゴロ打球左手首に当たって骨折し、3ヶ月後の夏場復帰している。骨折直って間もない頃はなかなか握力戻らず軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛み走った。しかし、なぜかカーブだけは痛みがなく投げられたため、リハビリとしてカーブだけを用いた遠投キャッチボール続けた最初のうちはコントロールがつかなかったが次第コツ掴み、これが今中決め球ともいえるスローカーブ習得したきっかけだという、また前腕筋肉鍛える中で左ひじの遊離軟骨が偶然くっついたとも述べている。同年11試合登板終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績残している。 1993年自身初の開幕投手務め開幕4連勝後で5連敗喫したがそこから大きく巻き返し7月6日の対ヤクルトでは当時セ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振記録した2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年先発で週に1、2回は登板し249イニング投げている。また、9月2日ナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から池山隆寛に同点本塁打打たれ延長まで投げ続けたものの15引き分け終わって首位浮上チャンス逃した。この試合翌年10.8決戦並んで現役時代で最も印象残っているという。同年最終的な成績17勝7敗、防御率2.20、247奪三振最多勝利最多奪三振などに輝き審査項目全て満たして沢村賞受賞したちなみに1990年代審査項目全て満たしたのは、今中以外には1991年佐々岡真司のみである。また、ベストナインゴールデングラブ賞にも選出されている。 1994年オールスターゲームで第2戦の9回に登板しイチローらを三者凡退打ち取っている。同年チームシーズン最終戦まで巨人激しく優勝争い中2日や中3日先発続いた痛みなどを訴える事はなかった。10.8決戦では試合先立って中村武志選手会面々に「勝って負けていいから先発し欲しい」と頼み込まれるほど信頼集めており、4回5失点降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている。 1995年疲労などでカーブなど球のキレ悪くなっていたが、チーム内で唯一規定投球回到達してリーグ2位の15完投挙げた同年オールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングパーフェクト抑えている。また、MLBスカウトからは同年渡米した野茂英雄より高い評価受けており、シンシナティ・レッズ監督デーブ・ジョンソンからシーズン中トレードによる獲得打診があったという。 1996年4年連続開幕投手務め6月27日ナゴヤ球場での対広島戦では球団史最速186試合1000奪三振達成するなどの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日東京ドームでの対巨人戦プロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛み訴えた翌日検査で左肩関節周囲炎のため2週間安静が必要という診断受けて一軍登録抹消され直後オールスターゲーム出場辞退し代わりに斎藤隆出場している。この故障半月前に腰痛登板回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習再開し7月29日一軍復帰8月4日ナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投勝利を挙げたその後も左肩の違和感残ったまま登板重ねて更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。

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現役前半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:54 UTC 版)

セザール・サンパイオ」の記事における「現役前半」の解説

1986年17歳時にブラジルのクラブチーム・サントスFCでプロキャリアをスタートする。なお同年には三浦知良サントス契約しており、プロとして同期ということになる。デビュー戦1986年4月8日CAジュベントス戦。順調に試合出場重ね1990年11月にはチリ戦でブラジル代表デビュー同年にはボーラ・ジ・オーロ受賞している。 1991年SEパルメイラス移籍するエジムンドリバウドロベルト・カルロスフレディ・リンコンジーニョエバイールアントニオ・カルロス・ザーゴエジウソンらとプレーヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督時代黄金期一員として活躍し93年94年2年連続カンピオナート・ブラジレイロカンピオナート・パウリスタの2冠を達成した1993年ボーラ・ジ・オーロ受賞1995年パルメイラス時代同僚であるジーニョエバイールとの3人で横浜フリューゲルス移籍する横浜Fが3人を獲得するのに1,000ドル以上を費やしたと言われている。当初日本特有のゾーンプレス馴染めなかったが、ブラジル人アントニオ・カルロス・シルバオタシリオ監督代わる本領発揮堅実な守備加えて攻撃力備えMFとして日本代表山口素弘中盤の底を担った。Jリーグデビューは1995年3月18日浦和レッズ戦。1996年3月30日サンフレッチェ広島戦でJリーグゴールとなる決勝ゴール決めた1998年10月29日横浜フリューゲルスホームタウンを同じとする横浜マリノスとの合併実態クラブ消滅)を発表した横浜フリューゲルス合併問題の際には、フリューゲルスイレブンとサポーター合同横浜駅前で『合併反対フリューゲルス存続求める』署名活動行った。この活動サンパイオ自身チームメートと共に街頭で署名呼びかけている。1999年元日天皇杯優勝最後にフリューゲルス消滅した為、サンパイオ日本離れ母国帰国することとなった

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