現役前半
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入団1年目は二軍での体作りに専念したため登板機会が無かった。150km/hを超える速球派投手として球団から期待される。秋の阪神とのオープン戦で好投し、自信をつけた。 1983年、春のグアムキャンプの一軍メンバーに選抜される。ここで監督の藤田元司から大きく曲がるカーブを教わり、速球を生かせるようになった。キャンプから若手の成長株として評価され、一軍に初昇格して活躍した同期生の吉村禎章、1歳年上の駒田徳広らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。 開幕一軍入りを果たすと、4月16日の対阪神2回戦(甲子園球場)に一軍初登板で初先発すると、延長10回を5安打9奪三振、1-0で完封という鮮烈なプロデビューを飾った。4月24日の対ヤクルト戦に先発し、プロ入り2試合連続で完投勝利した。先発ローテーション入りを果たし、12勝1セーブ(9敗)の成績を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献。記者投票で213票、それ以外は「該当者なし」1票、「無効」1票という圧倒的な票を集め、新人王に選出された。 同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも第3戦、第6戦に先発登板した。後楽園球場での第3戦は、2-1とリードした6回表にテリー・ウィットフィールドに1号3ランを打たれ、5回1/3を4失点。西武球場での第6戦は、1回表原辰徳の適時打で1-0とリードしていたが、5回裏に石毛宏典に三塁打、6回大田卓司に1号本塁打を打たれて1-2と逆転され、6回2失点。いずれも勝ち負けはつかなった。 1984年、ストレートの最高球速がボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年に記録した155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hを記録するのは槙原では」とさえ言われていた。同年の日米野球では、槙原はボルチモア・オリオールズの主砲エディ・マレーと対決し、マレーに超特大の場外本塁打を被弾するが、後に自分が完璧に投げて、それでも打たれた本塁打だったと述懐している。 1985年4月17日の対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)で佐野元国とバッテリーを組み、7回表にクリーンナップであるランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布に3者連続でバックスクリーンへの本塁打(バックスクリーン3連発)を喫した。それから2か月後の6月28日の同カード13回戦に先発し、チームは球団記録となる1試合8本塁打を記録、自身も球団通算5000号本塁打となる現役生活で唯一の本塁打を打ち、大量14点の援護点もあり1失点で完投勝利した。ところが、降雨ノーゲームとなった7月14日の対阪神16回戦の1回表にランディ・バースの打球が右足のスネに当たり、撥ね返った打球を捕りにいくときに転んで、左股関節骨折の重傷を負い、その後のシーズンを棒に振った。 1986年、イースタン・リーグで調整登板を重ね、5試合に登板して計33回を投げ、36奪三振、6失点、また2日の金沢での西武戦で完封するなど「怪我の後遺症がなくなった」と判断されたため、5月4日、10か月ぶりに一軍登録された。5月11日の対広島6回戦に先発して前年7月14日以来300日ぶりに復帰登板したが、3回2/3、6失点で降板した。後半戦は、8月に4勝1敗、3完封、防御率0.63で月間MVPを受賞するなど、投手陣の柱としてチームを支え、広島東洋カープとの優勝争いの原動力となっていた。しかし、10月7日の対ヤクルト26回戦ではマーク・ブロハードに逆転本塁打を打たれ、広島が首位に浮上し巨人は2位に転落する痛恨の敗戦となり、12日に広島がリーグ優勝を決め、巨人は広島と僅差の2位に終わった。現役引退時に、「一番悔しかった」試合として阪神戦での3連続被弾ではなく、この試合を挙げた。 1987年は、新人王を獲得した1983年以来4年ぶりに2桁となる10勝(6敗)を挙げ、チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献。西武との日本シリーズでは第4戦に先発し、3安打11奪三振で完封し、シリーズ初勝利を挙げた。シリーズは2勝4敗で西武に敗れたものの、優秀選手賞を受賞した。 1988年は、プロ入り後初めて年間200イニングを突破した(208回1/3)。また、当時はリーグ連盟表彰の対象ではなかったが、リーグ最多の187奪三振を記録した。 1989年は、開幕から先発とともに登板の合間にはリリーフも兼ねるなど、オールスターゲーム前までに12勝3敗4S、防御率1.75という活躍を見せた。しかし、後半戦の開始となった7月29日の対広島15回戦で、2回裏一死後、植田幸弘へ3球目を投げた後に軸足の右膝をひねったため降板。31日、東京・慈恵医大病院での精密検査で右膝内側半月板損傷と判明し、治療のため残りのシーズンを棒に振った。チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たし、槙原もリハビリを終えて近鉄バファローズとの日本シリーズに出場有資格選手入りした。10月24日の第3戦に3番手で登板し、約3か月ぶりに実戦登板を果たした。 1990年も、前年の怪我が尾を引いていた。4月に2勝したものの、その後は打ち込まれる試合が続き、5月末に不調による再調整と足に打球を受けた治療を理由に二軍落ちした。夏に復帰し、それから調子を上げたが、この年の公式戦最終戦の10月10日の対広島26回戦に先発するも敗戦投手となって9勝に終わり、シーズン序盤の不調の影響で4年ぶりに規定投球回に到達できなかった。西武との日本シリーズでは、終盤の好調さを買われ第1戦の先発に起用されたが、その初回に西武のオレステス・デストラーデに、カウント0-3からの4球目が「ボール気味に投げたつもりが、ど真ん中」となって1号3点本塁打を打たれた。西武は無傷の4連勝で日本一となり、このデストラーデの本塁打は「シリーズの流れを決めた本塁打」と評された。 1991年、7月19日の対中日14回戦に先発し、7回まで8-0と大量の援護点を貰いながら、その裏1失点、8回に一死満塁のピンチに二点適時打を打たれた所で降板させられる。しかし、救援した木田優も失点を重ね中村武志に代打満塁本塁打を打たれて同点、そして延長10回にまたも中村にサヨナラ本塁打を打たれて、球団史上初の8点差からの逆転負けを喫した。オールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発したため、第2戦では登板予定がなかった。しかし、第2戦(広島市民球場)が延長戦に突入し、他チームの選手を無理に引っ張ることのできなかった全セ監督・藤田元司は槙原を登板させたが(控えに巨人の投手は槙原しかいなかった)、槙原はビジターのゲームと勘違いしていたため、ホームのユニフォームを忘れてしまい、ユニフォームと同じデザインのTシャツで投げるはめになった。これを最後にNPBのオールスターは、延長戦なし・9回打ち切りとなっている。 1992年は、開幕から順調に勝ち星を伸ばし、前半戦だけで10勝(5敗)し、3年ぶりの2桁勝利を記録するが、オールスター後は2勝8敗と調子を落とし、自己最多タイの12勝を挙げる一方で、負け数が13で2年連続で負け越してしまう。
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現役前半
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1989年は近藤真一や上原晃の例に倣い、キャンプからオープン戦の期間は二軍でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた。新宅洋志や稲葉光雄の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み、早くも5月26日にはナゴヤ球場での対巨人戦で一軍初登板を果たした。9月17日の広島での対広島戦では先発して北別府学と投げ合い、2回にマメを潰しながらもアロンアルフアで固めて5回を投げプロ初勝利を挙げた。オフの秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチが来ており、当時MLBで流行していたスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークボールを習得した。 1990年、キャンプで投手コーチの池田英俊にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した。また、シンカーの習得にも挑戦した。3月4日に守備練習でノックの球をヒザに当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に豊橋で行われたダイエーとのオープン戦では村田勝喜と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せた。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された。当時はまだ漫然と投げるようなところがあったものの、先発ローテーションに定着し、6完投など規定投球回に達して10勝を記録している。 1991年、オールスターゲームに初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は佐々岡真司との最優秀防御率を争い、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトルを逃した。 1992年は4月19日の対巨人戦でゴロの打球が左手首に当たって骨折し、3ヶ月後の夏場に復帰している。骨折が直って間もない頃はなかなか握力が戻らず、軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛みが走った。しかし、なぜかカーブだけは痛みがなく投げられたため、リハビリとしてカーブだけを用いた遠投キャッチボールを続けた。最初のうちはコントロールがつかなかったが次第にコツを掴み、これが今中の決め球ともいえるスローカーブを習得したきっかけだという、また前腕の筋肉を鍛える中で左ひじの遊離軟骨が偶然くっついたとも述べている。同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。 1993年、自身初の開幕投手を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し、7月6日の対ヤクルトでは当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から池山隆寛に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の10.8決戦と並んで、現役時代で最も印象に残っているという。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利、最多奪三振などに輝き、審査項目を全て満たして沢村賞を受賞した。ちなみに、1990年代で審査項目を全て満たしたのは、今中以外には1991年の佐々岡真司のみである。また、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されている。 1994年、オールスターゲームで第2戦の9回に登板し、イチローらを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴える事はなかった。10.8決戦では試合に先立って中村武志ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれるほど信頼を集めており、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている。 1995年、疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていたが、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。同年のオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また、MLBのスカウトからは同年に渡米した野茂英雄より高い評価を受けており、シンシナティ・レッズ監督のデーブ・ジョンソンからシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという。 1996年、4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成するなどの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の東京ドームでの対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後のオールスターゲームは出場を辞退し、代わりに斎藤隆が出場している。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。
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現役前半
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「セザール・サンパイオ」の記事における「現役前半」の解説
1986年17歳の時に、ブラジルのクラブチーム・サントスFCでプロキャリアをスタートする。なお同年には三浦知良もサントスと契約しており、プロとして同期ということになる。デビュー戦は1986年4月8日対CAジュベントス戦。順調に試合出場を重ね、1990年11月にはチリ戦でブラジル代表デビュー、同年にはボーラ・ジ・オーロを受賞している。 1991年、SEパルメイラスに移籍する。エジムンド、リバウド、ロベルト・カルロス、フレディ・リンコン、ジーニョ、エバイール、アントニオ・カルロス・ザーゴ、エジウソンらとプレー、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督時代の黄金期の一員として活躍し、93年・94年と2年連続でカンピオナート・ブラジレイロとカンピオナート・パウリスタの2冠を達成した。1993年ボーラ・ジ・オーロ受賞。 1995年、パルメイラス時代の同僚であるジーニョとエバイールとの3人で横浜フリューゲルスに移籍する。横浜Fが3人を獲得するのに1,000万ドル以上を費やしたと言われている。当初は日本特有のゾーンプレスに馴染めなかったが、ブラジル人のアントニオ・カルロス・シルバやオタシリオに監督が代わると本領発揮、堅実な守備に加えて攻撃力も備えるMFとして日本代表の山口素弘と中盤の底を担った。Jリーグデビューは1995年3月18日の浦和レッズ戦。1996年3月30日のサンフレッチェ広島戦でJリーグ初ゴールとなる決勝ゴールを決めた。 1998年10月29日、横浜フリューゲルスがホームタウンを同じとする横浜マリノスとの合併(実態はクラブ消滅)を発表した。横浜フリューゲルス合併問題の際には、フリューゲルスイレブンとサポーターが合同で横浜駅前で『合併反対とフリューゲルス存続を求める』署名活動を行った。この活動にサンパイオ自身もチームメートと共に街頭で署名を呼びかけている。1999年元日の天皇杯優勝を最後にフリューゲルスが消滅した為、サンパイオは日本を離れ母国へ帰国することとなった。
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