力士団の要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
春秋園事件によって力士団が要求した内容は、 相撲協会の会計制度の確立とその収支を明らかにすること 興行時間の改正、夏場所は夜間興行にすること 入場料の値下げ、角技の大衆化(枡席を少なくして大衆席を増やすこと) 相撲茶屋の撤廃 年寄の制度の漸次廃止 養老金制度の確立 地方巡業制度の根本的改革 力士の収入増による生活の安定 冗員の整理 力士協会の設立と力士の共済制度の確立 である。 当時の大日本相撲協会は、1923年9月1日に発生した関東大震災で焼失した両國國技館の再建に伴う巨額の負債を抱え、さらにその債務が滞っていたこと、それに加えて租税も滞納していたと言われる(協会の財政が不透明であるという指摘もあった)。事件の数年前には年寄の一部から造反があったり、さらに力士の着物代が滞っているとして業者が協会相手に破産申請をするという騒ぎまで発生した。 一方で、力士の生活は窮状に瀕していたといわれる。場所ごとに支払われる手当てでは到底一年を過ごすことが出来ず、師匠から前借りをして養老金で返したために老後の蓄えが全く無くなる者、後援者を回って小遣い稼ぎに走る者、中には風呂で後援者の背中を流す力士までいたと言われる。相撲に武士道の考えを導入し、力士の品位向上に寄与した常陸山谷右エ門の直弟子だった天竜には、そうした力士内の現状が品位の下落として許容せざるものだったのではないか、とされる。 さらに入場料が高値で、入手が難しいという問題点も抱えていた。枡席の入手方法も相撲茶屋を通さねば一般人は買うことが出来ず、その相撲茶屋も一部の親方衆が間接的に経営しているために力士から手当てをピンハネしているという噂の他、親方衆が私腹を肥やして力士の窮状がますます広がっているとも言われていた。1927年に行われた角界の東西合併も、それによって東京協会が日本で唯一の興行組織となったものの、親方・力士を含めて多数の冗員が発生するという問題点も抱えていたとされる。 これらの問題の数々が、天竜らの決起の要因だとされている。天竜らが要求の中で最重要視したのは協会の財政問題、つまり1番目の要求だった。これに対する協会の回答が不誠実なものだと天竜らは評価し、脱退へと進んでいったと言うのである。出羽ヶ嶽以外の力士が全員丁髷を落としたのは、協会の一任を受けて調停に乗り出した右翼団体の矛先をかわす目的もあったと言われている。 これらの動きを受けて協会は、同年1月29日に改革方針を決定した。このうち、力士会の設立や養老金制度の確立などは要求を受け入れる形となった。また会計制度の確立、相撲の普及活動の充実などについては、のちの改革で実現、夜間興行も1場所限りながら実現された(1955年9月場所)。相撲茶屋は1980年代中頃に整理されて20軒の「相撲案内所」と名を替え、新規設立された國技館サービス株式会社の傘下において事実上法人化されたが、枡席券入手の難しさなどは旧態依然で批判も多い。年寄制度、巡業制度などは現在も模索が続いている。
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