2度の大関昇進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:28 UTC 版)
新大関となった1975年3月場所は11勝4敗、翌5月場所は、この場所で優勝した北の湖を千秋楽に破り、12勝3敗とし、優勝1点差で次点となった。綱取り場所となった7月場所は8勝7敗と不調。この場所の11日目が終了した時点で4勝7敗と後がなくなった状況でもなお休場を否定する意向を示したところ、報道陣が信じてくれないため「力士は土俵あってこその命。休場は試合放棄と同じ」と勢いで発言してしまったが、千秋楽まで4連勝と挽回して勝ち越した結果、名言として残ることとなった。肘の故障で得意の攻めが出せず、続く9月場所、11月場所と2場所連続で6勝9敗と負け越し、大関から陥落した。10勝すれば大関復帰となる翌1976年(昭和51年)1月場所は7勝8敗と負け越し、同年5月場所には、前頭6枚目まで下がったが、この場所で10勝をあげ、敢闘賞を受賞した。 さらに、9月場所では前頭4枚目で14勝1敗で2度目の優勝(元大関の平幕優勝は史上初)、11月場所には関脇に復帰して11勝4敗、1977年1月場所も11勝4敗の好成績を収め、3場所通算で36勝9敗の好成績により若三杉と共に大関昇進が決まった。この時返り咲きとなる魁傑にも新大関と同様に使者が送られ、昇進伝達式が行われた。大関特例復帰制度によらず通常の大関昇進の場合と同様に番付編成会議および理事会の決定により大関返り咲きが決まったため伝達の必要があったためである。当時魁傑本人はその時「一度大関の名を汚しちゃったので、(口上で)何と言えばいいのかなあ」と言っていたらしく、「大関の名を汚さぬように」を避け「謹んでお受けします」とだけ答えた。なお、「大関は2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で10勝以上すれば即復帰できる」という現行の制度ができて以降、大関陥落の翌場所に10勝を挙げられず後に大関復活を果たしたのは、魁傑のほかに照ノ富士が達成したのみである。 しかしながら大関に戻ってから2場所連続で8勝7敗の成績が続き、その上またしても肘の故障に悩まされ、1977年7月場所で6勝9敗と負け越し、9月場所も5勝10敗と連続して負け越してしまい再び大関から転落した。1977年11月場所で再び大関特例復帰を目指したが、6勝9敗とまたしても負け越した。その後魁傑は3度目の大関昇進(2度の大関復活)を目指すも、1978年(昭和53年)5月場所で小結に復帰するのが精一杯で、好成績を挙げる事は殆ど無くなった(ほか貴ノ浪、栃東、栃ノ心も2度大関陥落。その内栃東が史上初の2度大関特例復帰を果たした)。大関再陥落後も魁傑は横綱や大関との名勝負を繰り広げたが、1979年(昭和54年)1月場所11日目でついに現役引退を表明した(4勝7敗、引退当日の不戦敗は除外)。初土俵以来一度の休場もなく、引退発表の席では「13年間、精一杯にやって来て、悔いは無い。」と笑顔で語った。 引退する前年の1978年3月場所7日目、大関・旭國との対戦で4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直し。その取り直しの一番もまた三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで勝ち、合計10分19秒にわたる大熱戦の一番があった。この相撲は打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている。ちなみに魁傑はこの一番の前日の6日目、大関・若三杉とも水入りの相撲を取っており(この時は敗戦)、旭國も膵臓炎で場所前に退院したばかりであった。この場所は大ノ国が魁傑の内弟子第一号として花籠部屋から初土俵を踏んだ場所である。 度重なる負傷により、好不調の波が激しかった。特に左肘の状態がひどく、「相撲を続けている限り完治しない」とまで医者に告知されていた。このために大関から2度陥落したがその負傷さえなければ横綱になっていたという評価は現在でもある[誰によって?]。先述の通り「休場は負けだ」との名言(「試合放棄だ」「敵前逃亡だ」と言ったこともある)を残した。 この発言については、引退直後の手記で「体が全く動かないなら話は別だが、土俵に上がれるのなら勝つ可能性はわずかでも残っている。休場はそのチャンスを自らの手で断ち切ってしまうことであり、可能性がある以上は全力を尽くすべきである。」と述べている。不調で黒星が続いても決して休まず戦う姿はファンの人気を集め、大関互助会に入らず生涯ガチンコを貫いたことで周りからは変人扱いされたという。これについて、本人は、角界はちゃんと生きようとすると変人と思われる世界だが易きに流されてはダメだという発言を残している。「力士である前に立派な社会人でありたい」と発言したとも伝わり、このような真面目で誠実な人柄は「相撲界においては真面目過ぎる個性のない力士」と評される向きもあったが、土俵態度の誠実さもあいまって力士の手本と評され名大関と呼ばれた。また腰が高いという欠点もあって、相撲解説者・玉の海梅吉は、四股名をもじって「魁傑は未解決だね」と語っていた。どうやら強弱の差が激しく、強みと弱みが表裏一体であるといった意味だったらしい。 当時の子供の間では、その四股名から「かい(痒い)けつ(尻)」とも言われた。また、ある時、風呂場に石鹸がなかったため、ママレモンで身体を洗い、股間が爛れたことがある。同郷である元首相の佐藤栄作が、現役時代の後援会長を務め、結婚時の仲人は佐藤の義理甥である安倍晋太郎が務めた。
※この「2度の大関昇進」の解説は、「魁傑將晃」の解説の一部です。
「2度の大関昇進」を含む「魁傑將晃」の記事については、「魁傑將晃」の概要を参照ください。
- 2度の大関昇進のページへのリンク