2度の全日本優勝とは? わかりやすく解説

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2度の全日本優勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)

醍醐敏郎」の記事における「2度の全日本優勝」の解説

1950年全日本選手権大会またしても第3位甘んじたが、3度目出場となる1951年第4回全日本選手権大会醍醐優勝候補最有力目され、これに応えるかのように全日本王者松本安市7段や大豪羽鳥輝久6段らを降し決勝戦では後々までライバルとなる吉松義彦6段を鮮やかな大外返返して一本勝を奪い選手権獲得した。 この大会優勝者12月パリ開催第1回欧州選手権大会招待されるになっており、実際にフランス柔道連盟ポール・ボネモリ(フランス語版会長招待11月28日から嘉納館長松本芳三7段、田代重徳のほか京都から参加栗原民雄9段帯同する形で欧州6ヵ国を歴訪した。周囲反対押し切ってこれに参加した醍醐全日本王者として各国選抜選手相手掛け試合行い、その圧倒的な強さと、妙技とも言える華麗な技を以って満場観衆驚嘆せしめている。醍醐回想拠れば使節一行のうち選手醍醐1人のみであったため、現地体調崩して実技ができなかったら日本の恥”になると考えたため非常に緊張感があり、実勢現地では酒類一切飲まず節制心掛けたという。なお、この間イタリアでピウス12世への謁見許されバチカン法王居室では握手交わして記念メダル拝受した。 続けてカナダ・アメリカ合衆国歴訪し2月15日温暖なハワイから帰国する東京大雪で、醍醐はその寒暖から風邪をひいて1週間ほど寝込む憂き目に。その後道場復帰するも地に足が付かず5月第5回全日本大会準決勝戦吉松義彦6段の内股に畳を背負い3位に留まった。それでも8月第5回全日本東西対抗大会東軍の三将として出場し西軍副将広瀬巌7段と大将伊藤徳治7段を破って東軍副将大将残し快勝を齎(もたら)し、醍醐自身も最優勝選手賞を受けている。 1953年1月には講道館の“研修主任”を拝命し、将来を嘱望される学生のほか来日中の外国人修行者育成の任に当たったほか、技や形の研修嘉納履正館長サポート役をこなした。このほか、講道館が特に有望な学生を“特別研修生”として選抜し明治大学黒住大和東洋大学山岸均がこれに選ばれると、醍醐2人自宅預かって寝食共にするなどして育成勤しみ、これらの制度1960年頃まで続けられた。この講道館時代醍醐1956年6月には30歳若さで7段位に列せられている。一方で1953年5月全日本選手権大会直前右手首にド・ケルバン病発症して出場辞退、この治療には数ヵ月要したものの、翌54年5月第7回大会では決勝戦醍醐より一回り大柄な武専出身中村常男7段を判定降し自身2度目となる選手権獲得成し遂げた

※この「2度の全日本優勝」の解説は、「醍醐敏郎」の解説の一部です。
「2度の全日本優勝」を含む「醍醐敏郎」の記事については、「醍醐敏郎」の概要を参照ください。

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