2度の全日本優勝
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1950年の全日本選手権大会はまたしても第3位に甘んじたが、3度目の出場となる1951年の第4回全日本選手権大会で醍醐は優勝候補の最有力と目され、これに応えるかのように元全日本王者の松本安市7段や大豪・羽鳥輝久6段らを降し、決勝戦では後々までライバルとなる吉松義彦6段を鮮やかな大外返で返して一本勝を奪い選手権を獲得した。 この大会の優勝者は12月にパリで開催の第1回欧州選手権大会に招待される事になっており、実際にフランス柔道連盟ポール・ボネモリ(フランス語版)会長の招待で11月28日から嘉納館長、松本芳三7段、田代重徳のほか京都から参加の栗原民雄9段に帯同する形で欧州6ヵ国を歴訪した。周囲の反対を押し切ってこれに参加した醍醐は全日本王者として各国の選抜選手を相手に掛け試合を行い、その圧倒的な強さと、妙技とも言える華麗な技を以って満場の観衆を驚嘆せしめている。醍醐の回想に拠れば、使節一行のうち選手は醍醐1人のみであったため、現地で体調を崩して実技ができなかったら“日本の恥”になると考えたため非常に緊張感があり、実勢に現地では酒類は一切飲まずに節制を心掛けたという。なお、この間イタリアではピウス12世への謁見が許され、バチカンの法王居室では握手を交わして記念のメダルを拝受した。 続けてカナダ・アメリカ合衆国を歴訪し、2月15日に温暖なハワイから帰国すると東京は大雪で、醍醐はその寒暖差から風邪をひいて1週間ほど寝込む憂き目に。その後道場に復帰するも地に足が付かず、5月の第5回全日本大会は準決勝戦で吉松義彦6段の内股に畳を背負い3位に留まった。それでも8月の第5回全日本東西対抗大会に東軍の三将として出場し、西軍副将の広瀬巌7段と大将の伊藤徳治7段を破って、東軍に副将・大将残しの快勝を齎(もたら)し、醍醐自身も最優勝選手賞を受けている。 1953年1月には講道館の“研修員主任”を拝命し、将来を嘱望される学生のほか来日中の外国人修行者の育成の任に当たったほか、技や形の研修、嘉納履正館長のサポート役をこなした。このほか、講道館が特に有望な学生を“特別研修生”として選抜し、明治大学の黒住大和と東洋大学の山岸均がこれに選ばれると、醍醐は2人を自宅に預かって寝食を共にするなどして育成に勤しみ、これらの制度は1960年頃まで続けられた。この講道館時代に醍醐は1956年6月には30歳の若さで7段位に列せられている。一方で1953年5月の全日本選手権は大会直前に右手首にド・ケルバン病を発症して出場を辞退、この治療には数ヵ月を要したものの、翌54年5月の第7回大会では決勝戦で醍醐より一回り大柄な武専出身の中村常男7段を判定で降し、自身2度目となる選手権獲得を成し遂げた。
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