2度のブラジル代表監督就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/01 20:26 UTC 版)
「テレ・サンタナ」の記事における「2度のブラジル代表監督就任」の解説
1980年末にブラジル代表監督就任を打診され、これを引き受けた。マラカナン・スタジアム創立30周年記念のソビエト連邦戦には敗れたが、ムンディアリート(FIFAワールドカップ50周年記念国際親善試合)ではアルゼンチンと西ドイツから勝ち点4を奪うまずまずの結果を残した。1982 FIFAワールドカップ本大会前のブラジル代表は黄金のカルテット(ジーコ、トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス)やレアンドロなどのスター選手を抱え、優勝候補の呼び名も高かった。 グループリーグ初戦ではやはり優勝候補の一角に挙げられていたソビエト連邦に2-1で勝利し、スコットランドとニュージーランドにはそれぞれ4得点ずつを奪って快勝した。2次リーグでは前回大会優勝のアルゼンチンに3-1で勝利したが、イタリア戦ではFWパオロ・ロッシやGKディノ・ゾフの活躍を許して勝利を逃した。スポーツ史においてもっとも記憶に残る試合のひとつとなったイタリア戦に敗れて決勝進出はならなかったが、1970 FIFAワールドカップのブラジル代表に匹敵すると言われるほどのスペクタクルなサッカーを見せたブラジル代表は世界中から称賛され、FIFAから第1回フェアプレー賞を贈られ、メンバーの多くは大会後にヨーロッパのクラブへと羽ばたいた。 1983年にはサウジアラビアのアル・アハリ監督に就任し、サウジ・プレミアリーグ優勝、キングス・カップ優勝、ガルフ・クラブ・チャンピオンズカップ優勝(いずれもクラブにとって初タイトル)を果たした。 1985年にブラジル代表のエヴァリスト・デ・マセド監督が辞任し、サンターナが急遽代表監督に就任した。ジーコやトニーニョ・セレーゾの負傷、レナト・ガウショらの合宿所抜け出し騒動など問題が山積していたが、衰えの色が見えたファルカンをメンバーから外し、A代表歴のなかったジョジマールなどの若手を何人か加えて大会に臨んだ。グループリーグ1戦目のスペイン戦と2戦目のアルジェリア戦はともに1-0の辛勝だったが、3戦目の北アイルランド戦はジョジマールの代表初得点などで快勝し、決勝トーナメントに進んだ。ベスト8を決定するポーランド戦には4-0で勝利したが、準決勝のフランス戦では試合中にジーコがPKを外し、1-1の引き分けの末にもつれ込んだPK戦で敗退が決まった。なお、このPK戦でフランスのベローヌが蹴ったボールがポストに跳ね返された後キーパーのカルロスに当たってゴールインしたが、「私はゴールだと思う」と発言する一方、「あれは無効にするべきだ」と相反する発言もしている。 結局ブラジル代表では2期合わせて53試合を指揮し、38勝10分5敗の成績を残した。南米勢とは22戦して15勝6分1敗、ヨーロッパ勢とは28戦して20勝4分4敗と、両者から等しく勝ち星を挙げた。 1988年にアトレチコ・ミネイロ監督に復帰すると、再び全国選手権優勝を果たした。1989年から2年間はパルメイラスの監督を務めたが、1990年秋に辞任した。
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