2度の世界王者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:27 UTC 版)
1983年に大学を卒業すると体育学部助手として国士舘に残り、直後4月の全日本選手権では3回戦まで難なく勝ち上がって準決勝戦では天理大学学生の正木嘉美3段との巨漢対決に。激しい攻防の末に両者とも決定的なポイントは無かったが、大外刈・大内刈・体落・背負投と果敢に攻め続けた斉藤が判定勝を得て、全日本3度目の出場で自身初となる決勝進出を果たした。大会7連覇を狙う山下泰裕5段との決勝戦では、大外刈等で攻める山下に対して斉藤は必死に堪えながら応戦して互角の試合を展開するも、試合終了間際に斉藤の大外刈を山下が小外刈で返して場外ながらも斉藤に尻もちを付かせたのが材料となり、旗判定では山下に旗が2本上がって斉藤は準優勝で大会を終えている。それでも10月にモスクワで開催された世界選手権に無差別級で出場すると優勝を果たし、同じく重量級を制した山下と共に世界チャンピオンの栄冠を得た。翌84年には、4月の全日本選手権で松井勲5段との準決勝戦以外は危なげ無く勝ち上がり、大方の予想通り8連覇を狙う山下5段と世界選手権者同士の決勝戦に。試合は前年同様一進一退の攻防となるも最後は山下の優勢勝となり、斉藤にとっては前年の雪辱には至らずまたも準優勝に甘んじた。8月のロサンゼルス五輪で日本は山下を無差別級、斉藤を重量級に据えてこれに臨み、斉藤は決勝戦で前大会王者のアンジェロ・パリジを破って優勝、世界選手権と同様に山下と2人揃っての金メダルを獲得した。ただし斉藤は、世界王者に2度輝きながら山下に勝てず全日本で優勝していないこの頃の心境を「五輪で金メダルを獲りながら自分は本当の世界一ではない、という蟠(わだかま)りが心の中に常に残っていた」「最初は憧れ・目標の存在であった山下さんを倒す事が自分の宿命だと、次第に感じるようになっていった」と著書の中で述懐している。とりわけ“山下2世の斉藤”というように、自分の名前が呼ばれる時に必ず“山下”の名前で形容される事には非常に抵抗があったようである。
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