一進一退の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 06:16 UTC 版)
正長2年(1429年)7月、豊田中坊と井戸某の間に争いが起こった。興福寺と幕府は停戦勧告をしたが一向に争いはやまず、豊田方についた越智氏、箸尾氏らは井戸方に加勢した筒井氏、十市氏を攻めた。翌永享2年(1430年)2月には井戸氏と同族の筒井氏を支持する幕府より、興福寺に対し豊田討伐の指示が出、更に翌永享3年(1431年)8月には筒井氏と箸尾氏が互いに相手方の居城を攻めるなど戦乱は拡大。将軍足利義教は箸尾氏に対し撤兵勧告をした。 翌永享4年(1432年)9月には越智・箸尾両氏に筒井氏が大敗し、井戸方の形勢不利になっていたが、筒井順覚の次男・成身院光宣が幕府に訴えたことで戦局に変化が生じる。義教はそれまでの不介入方針を変更し越智氏討伐を決め、畠山氏と赤松氏に出兵を命じた。しかし河内守護で宿老の畠山満家は介入に否定的であり、12月に行われた合戦で畠山軍は傍観した。一方赤松満祐軍は奮戦し、越智氏は大和南部に没落した。満家(永享5年9月に死亡)は越智維通を支援、筒井氏も細川持之を頼ったが、永享6年(1434年)に入ると越智氏は勢いを盛り返した。筒井氏は再度大敗を喫し、筒井順覚は戦死、長男の順弘が後を継いだ。 翌永享7年(1435年)義教は光宣の訴えにより越智維通らの再度の討伐を決め、幕府軍を派遣した。越智氏は多武峰や冬野城に籠もり敗れたものの以後も抗戦を続け、斯波持有率いる幕府軍は永享9年5月22日(1437年6月25日)に大合戦に及んだが決着がつかなかった。
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