一進一退の攻防戦とラオスへの戦火拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:08 UTC 版)
「第一次インドシナ戦争」の記事における「一進一退の攻防戦とラオスへの戦火拡大」の解説
1952年2月、ベトミン軍はホアビンを占領、ハノイ包囲網を狭めた。フランス軍はド・ラトル線の多くを保持していたが、10月にベトミン軍は北西部に3個師団を投入しナサンの戦い(英語版)で攻勢に転じ、沱江沿岸の要衝ナサンを攻略し、ラオス国境目前にせまった。11月、ベトミン軍は中ソ製の120mm迫撃砲、75mm無反動砲を使いフランス軍を撃退し、フランス軍はソンラを撤退、飛行場のあるナサンに集結、空挺部隊を投入し周辺の攻勢を阻止した。しかしラウル・サラン極東遠征軍団司令官はラオカイを奪回せず、これが戦局の転換点となり、実質的な敗北となった。 1953年1月、アンケ攻防戦でフランス軍は空母を動員し海軍部隊も投入した。ベトミン軍はタイピン、ホアビンに進出、ハイフォン南に切迫。紅河デルタ一帯は膠着状態に陥る。やがてベトミン軍は南進し、北部沿岸および中部フエ、ダナン、クイニョンを占領する。4月、ベトミン軍はフランス軍の補給線と防衛線を破綻させるためラオスに進攻、これに対しフランス軍もビエンチャンに部隊を増派、ジャール平原に空挺部隊を降下させ防戦した。 フランスの報告によれば、1954年初期には南ベトナム農村地帯の90%はベトミンが支配していた。
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