極東遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:17 UTC 版)
当時、アメリカの日系チームは日本へ、逆に日本の大学や実業団チームがアメリカへ、と交流を続けていた。こうした中で1924年・1927年・1937年の3度にわたり日本・朝鮮・満州へ遠征した。 1924年は、10月に来日し関西から福岡にかけて連戦、11月に関東で6大学野球を中心に試合を行った。 1927年は、4月に来日し神宮球場で、のち北海道から東北の各地で連戦、5月15日から関西で連戦、のち西へ連戦を重ね朝鮮・満州へ渡った。この年は44戦して35勝8敗1引き分けの好成績で帰米するなど、実力は宮武三郎・山下実など日本を代表する強打者を揃えた慶應、松木謙治郎らを擁する明治を上回るレベルであった。この年の『野球界6月号』では巻頭グラフで特集が組まれ、「大学チームを総なめに」「悠々連戦連勝」と見出しを飾った。ただ負けた大阪毎日野球団の選手は自分たちの練習不足だったと話し、大毎小野三千麿が聞いたところによると慶応監督腰本寿は「本来の練習をしてやればかならず勝つ」と語ったという。 また同1927年には日米野球としてニグロリーグ選抜“Philadelphia Royal Giants(フィラデルフィア・ロイヤルジャイアンツ、費府巨人軍とも)”が同時期(あるいは同じ船)に来日している。それ以前の日米野球は大リーグ(MLB)選抜が来日していたが、1922年に行われた17戦のうち第7戦対慶應連合のみ負けてしまった(3-9)ことが発端となり、しばらく大リーグ選抜は来日を止めてしまったため、日系人が代わりにニグロリーグのチーム派遣を仲介し実現させた。ロイヤルはフレスノ野球団とも神宮で対戦し、フレスノと同時期に関西や朝鮮のチームと試合している。 この1927年のフレスノ野球団来日メンバーにはバスケットボール選手5人も含まれていた。そこで早大・商大・帝大・立教などの各バスケ部との親善試合の日程も組まれた(記録など詳細不明)。松本瀧藏の案内で立教へ立ち寄ったフレスノ野球団は立教バスケ部と親善試合を行った後、ポール・ラッシュ教授の好意でティー・パーティーが開かれ、そのときにフレスノ野球団はアメリカの古い歌である"Our Boys Will Shine Tonight"の替え歌"リッキョー・ウィル・シャイン"を披露した。この歌を立教バスケ部員が事あるごとに歌い広げ、更にラッシュとカール・ブランスタッド両教授がリッキョーを"セント・ポールズ"(立教大学#概観参照)に変えて立教中学校の音楽教材として用いたことで定着した。これが立教大学の第二応援歌"St.Paul's will shine tonight"誕生の経緯である。 1937年の状況は不明。
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