連合国軍進駐
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「第一次インドシナ戦争」の記事における「連合国軍進駐」の解説
連合国一般命令第1号(1945年9月2日公布)に基づき、北緯16度線以北が中国国民党軍に、以南がイギリス軍に割り当てられ、フランス軍が本格展開するまでの間、進駐する事となった。同年8月末には北部ベトナムに盧漢将軍率いる国民党軍180,000人規模の部隊が進駐、南部ベトナムには9月12日にルイス・マウントバッテン卿率いる英印軍の第一陣が上陸しそれぞれ日本軍の武装解除に着手した。フランスは、ジョルジュ・ティエリ・ダルジャンリュー提督を高等弁務官に任命し、軍からは本国軍2個師団の派遣を決定し、フィリップ・ルクレール将軍を長とするフランス極東遠征軍団が編制され、9月12日にマダガスカル旅団を第一陣にして出発、10月5日に先遣部隊がサイゴンに到着、ルクレールは同月9日にジャック・マシュ大佐率いる行進群と一緒に到着した。11月までの間に3派に分かれて第3機械化師団と第9植民地師団が到着した。空軍は輸送機と戦闘機を中心に約100機を派遣、海軍はフィリップ・オーボワノ提督を長とする護衛艦隊を率いて、戦艦「リシュリュー」、軽巡洋艦「グロワール」、大型駆逐艦「ル・トリオンファン」、空母「ベアルン」が極東海域に展開した。 北部では、進駐国民党軍の共産主義敵視政策により、ホンガイ炭鉱などで多くのベトミン系労働者が逮捕・追放された。そのため臨時政府は非共産主義者を入閣させ、1945年11月にはインドシナ共産党を偽装解散した。以後インドシナ共産党は1951年にベトナム労働党となるまで、非合法組織として活動する。1946年2月、フランス・中華民国間で重慶協定が締結されると、国民党軍は4月以降順次撤退した。フランスは同協定で国民党軍撤退の代償として、中国でのフランス租借権放棄・雲南鉄道の中国譲渡・ハイフォン港自由化・在インドシナ華僑に対する優遇措置などを受け入れた。
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