連合国首脳との会談
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「フランクリン・ルーズベルト」の記事における「連合国首脳との会談」の解説
ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。1943年1月14日には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコのカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。会合は1月24日に終えたが、会談最終日にルーズベルトは第二次世界大戦の趨勢に重大な影響を及ぼすことになる「枢軸国との一切の和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」という原則を表明した。 これは戦争の終結において条件付き講和という方法が遮断され無条件の降伏しかないならば、枢軸国は敗戦濃厚となっても休戦という決断は取らないで必然的に破れかぶれで戦争の継続を突き進む可能性が高いと考えられ(実際にドイツはそうなった)、弊害の方が大きいとしてチャーチルはじめ反対意見が少なくなかった。またチャーチルはイタリアを枢軸国側から離脱するよう誘うためにも、枢軸国一律に無条件降伏を要求することは同意していなかった。しかしこうした重大な政治的、軍事的要素をはらむ問題にもかかわらず、ルーズベルトは事前に国務省から意見を聞いたり、チャーチルから承諾を得たりすることも無しに、独断で連合国首脳の総意であるかのように記者会見でコメントした。 これは当時、アメリカ世論がルーズベルト政権に対して「戦争の早期終結のため枢軸国勢力と安易に取引するのでは?」と不信感を抱いており、ルーズベルトはこの疑惑を払拭する何らかの意思表示をする必要性から無条件降伏の原則を発表した。ルーズベルト政権に疑惑が生じた背景には、その前年の1942年に米英軍が実施した親ドイツ姿勢のヴィシー・フランスが支配する北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)がある。自国内でナチス・ドイツが行うユダヤ人迫害政策に加担したヴィシー・フランス軍司令官フランソワ・ダルランと、ルーズベルト政府が秘密裏に休戦交渉していたことが露見、アメリカのマスコミに「ルーズベルトはファシズム勢力と妥協した」と激しく非難される経緯があった。 同年11月にはエジプトで行われたカイロ会談において、中国の蔣介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。その後チャーチル首相とともにイランのテヘランに移動してソ連のヨシフ・スターリン書記長と会談。 1944年10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。 翌1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が開かれ、大戦後の国際秩序や発足が議論されていた国際連合についての協議が行われた。また、日本の領土分割などについても話され、ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。 「ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定)」も参照 この会期中2月9日に開かれた英米軍事会議においてルーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」としてドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件をいくらか緩和するように提言された。それに対しルーズベルトは「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した。 そしてヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。後にソ連が満州に侵攻する。
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