南樺太
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北緯50度線以南を指す南樺太はアイヌの居住地で、ニヴフやウィルタは50度線に近い東岸の幌内川流域周辺のみに分布する。日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口は1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市(ユジノサハリンスク)。 1995年(平成7年)より稚内 - コルサコフ - 小樽を結ぶ日露定期航路が開設されており、稚内港より船で渡航が可能である。なお、稚内とコルサコフ間に定期航路が就航したのは50年ぶりである。
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南樺太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:00 UTC 版)
少なくとも、1922年(大正11年)頃までは三日熱マラリアが流行していた。その大多数は、土着マラリアと思われるが、現在では姿を消している
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