南樺太の戦闘とは? わかりやすく解説

南樺太の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:13 UTC 版)

ソ連対日参戦」の記事における「南樺太の戦闘」の解説

詳細は「樺太の戦い (1945年)」を参照 樺太日本軍は、1941年関東軍特種演習から対ソ戦準備をしていたが、太平洋戦争中盤からは対米準備進められて、中途半端な状態だった。第88師団主戦力で、うち歩兵第125連隊国境方面にあった。対ソ開戦後は、特設警備隊防衛召集国民義勇戦闘隊義勇召集実施され陣地構築避難誘導中心に活動した居留民については、1944年秋から第5方面軍避難指示があったが、資材不足などで進んでいなかった。ソ連軍侵攻後に第88師団樺太庁長官豊原海軍武官府の協力で、23日までに87670名が離島できた。その後自力脱出者合わせても、開戦時住民41万人のうち約10万人が脱出できたにすぎない。なお、戦後引揚者軍人軍属2万人、市民28万人合計30万人で、残留した朝鮮住民2万7千人を除くと陸上戦民間人死者は約2,000人と推定されている。後述引揚船での犠牲者合わせると、約3,700人に達する。 樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、8月9日7時30分武意加の国境警察加えられ砲撃である。11日5時頃から樺太方面における主力とされたソ連軍56狙撃軍団本格的に侵攻開始した樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの2方向から侵入した他方日本軍9日方面軍出した積極戦闘禁ず」という命令のため、専守防御的なものとなった。後にこの命令解除されたが前線には届かなかった。日本軍は、国境付近半田10kmほど後方八方陣地において陣地防御実施した日本の第5方面軍航空支援増援作戦等を計画したが、8月15日中止となった戦闘8月15日以降継続し、むしろ拡大していった。日本政府からの明確な指示出ないまま、ソ連軍による無差別攻撃対応し日本軍自衛戦闘として応戦続けた16日には塔路・恵須取ソ連軍上陸作戦実施20日には真岡へも上陸しこの際逃げ場失った電話交換女子達が集団自決する真岡郵便電信局事件発生した真岡歩兵第25連隊は、ソ連軍による軍使殺害事件発生したため自衛戦闘移った熊笹峠後退しつつ抵抗続け23日2時ごろまでソ連軍拘束していた。 8月22日に知取にて停戦協定結ばれるが、赤十字テント張られ白旗掲げられ豊原駅前にソ連軍航空機による空爆加えられ多数死傷者出た同日朝には樺太からの引揚船小笠原丸」「第二号新興丸」「泰東丸」が留萌沖ソ連軍潜水艦攻撃され、1708名の死者行方不明者出した三船殉難事件)。 その後ソ連軍南下継続し24日早朝には豊原到達樺太庁業務停止させて日本軍施設接収した25日には大泊上陸樺太全土占領した

※この「南樺太の戦闘」の解説は、「ソ連対日参戦」の解説の一部です。
「南樺太の戦闘」を含む「ソ連対日参戦」の記事については、「ソ連対日参戦」の概要を参照ください。

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