戦争の継続 (1969–72)
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「モザンビーク独立戦争」の記事における「戦争の継続 (1969–72)」の解説
1969年から実質的にポルトガル軍の司令官はアントニオ・アウグスト・ドス・サントス(英語版)将軍からカウルザ・デ・アリアガ(英語版)准将へ交替していたが、正式な交替は1970年3月となった。カウルザ・デ・アリアガ准将は反乱勢力との戦闘においてより直接的な手法を好み、それまで用いられてきたポルトガルの通常兵力が前線に展開する際に少数の原住民を帯同させる戦術を廃止した。 新しい司令官による戦略のもとで原住民の役割は減少していたにも関わらず、1973年においてもなお空挺部隊のような特殊な作戦に関しては原住民の募集は継続していた。こうしたカウルザ・デ・アリアガ准将による戦略の一部はアメリカの陸軍参謀総長・ウィリアム・ウェストモーランドとの会談の影響から生まれている。 1972年までには特にフレシャス(ポルトガル語版)(ポルトガル語: Frechas、「矢」の意)と呼ばれるアフリカ人部隊を使っていたフランシスコ・ダ・コスタ・ゴメス(ポルトガル語版)副司令官かが強い発言力を持っていた。フレシャスの部隊はアンゴラにおいても現在のポルトガル国家保安局(ポルトガル語版)(DGS, ポルトガル語: Direcção Geral de Segurança)の前身である国防国際警察PIDE(英語版)(ポルトガル語: Policia Internacional e de Defesa do Estado)の指揮下で活動していた。部隊は地方の部族民によって指揮され、特に追跡・偵察・対テロ作戦に用いられた。コスタ・ゴメスはアフリカ人兵士は人件費を低く抑え、かつ地域住民との関係をよりよく形成できると主張した。これはベトナム戦争でアメリカ軍が用いたハーツ・アンド・マインズ(英語版) (英語: Hearts and Minds) と呼ばれる戦略に近いものだった。 これらのフレシャス部隊は1974年のカーネーション革命によってアリアガ准将が罷免される直前までモザンビークで活動を続けていた。これらの部隊は革命の結果ポルトガルが独立を認めた後内戦状態に至った際にもFRELIMOの活動の障害になり続けた。 以下に示すものはモザンビーク紛争およびポルトガル植民地戦争全体で用いられた独特な特殊部隊である。 特殊部隊 (ポルトガル語: Grupos Especiais): 地方の部族民による志願兵による準軍隊的な部隊であり、ポルトガル兵による支援を受ける。アンゴラで用いられたものと類似している。 空挺特殊部隊 (ポルトガル語: Grupos Especiais Pára-Quedistas): 空挺兵としての訓練を積んだ黒人志願兵部隊。 戦闘追跡特殊部隊 (ポルトガル語: Grupos Especiais de Pisteiros de Combate): 追跡に関する訓練を積んだ特殊部隊。 フレシャス(ポルトガル語: Flechas): 地方の部族民や逃亡者による追跡・偵察・テロ活動を専門とした特殊部隊。フレシャスは状況により敵から鹵獲した制服で哨戒行動を取ったり、拘束したゲリラや鹵獲した敵装備に応じて現金で報酬を支給されたりした。 1970年から1974年の期間を通じて、FRELIMOはその活動を都市におけるテロを重点化し、ゲリラ戦を激化させた。 地雷の使用も激増し、この時期のポルトガル人の死傷者のうち3分の2が地雷を原因としたと言われている 地雷の広範な使用と並行して地雷恐怖症(英語: Mine psychosis)もポルトガル軍内に蔓延していた。地雷への恐怖と、それに結び付けられた敵軍を見ることなく死傷者を発生させるフラストレーションとが軍の士気を低下させ、さらに地雷恐怖症は蔓延していった。 1970年6月10日、ポルトガル陸軍によって大規模な反攻作戦が発せられた。「ゴルディオンの結び目作戦」(ポルトガル語: Operação Nó Górdio)と呼ばれる7か月に及ぶ作戦は反乱側のキャンプとモザンビーク北部のタンザニア国境からの滲透ルートに目標を定めたものだった。作戦には35,000名のポルトガル軍部隊が参加し、空挺部隊・コマンド部隊・海兵隊・海軍のフュージリア部隊のような一線級部隊が多く参加した。 ポルトガル軍は、軽爆撃機・ヘリコプター・陸上戦力の共同作戦に長けていた。ポルトガル軍はFRELIMOのキャンプに対し、ポルトガル空軍(ポルトガル語: Força Aérea Portuguesa, FAP)による爆撃とアメリカ軍によって用いられた戦術であるクイック・エアボーン(ヘリボーン)を用いてゲリラを包囲・殲滅した。これらの爆撃には同時に陸上部隊による重砲射撃も併用された。また、ポルトガル軍は騎兵部隊を車輛による移動が困難な地形における側面偵察や、ゲリラ部隊の基地跡で捕獲されたり孤立したりしたゲリラ兵の回収に用いた。 ポルトガル側は雨季の開始とFRELIMOによる攻勢が重なった時点で、さらに兵站上の困難な問題に突き当たった。ポルトガル兵の貧弱な装備も問題になっており、それだけでなく空軍と陸軍による共同行動の困難さも問題になっていた。また、陸軍は空軍による近接航空支援を欠いていた。 ポルトガル軍の死傷者がFRELIMOの死傷者を上回るに至って、軍に対する本国政府からのさらなる政治的介入を招いた。 ポルトガルは敵から651(より現実的な数値として440を挙げているものもある)の戦死者と1,849の捕虜を出し、自軍から132のポルトガル人の損失があったと報告している。アリアガ准将はまた、最初の2か月間に自らの部隊で61のゲリラ基地と165のキャンプを破壊し、40トンの弾薬を鹵獲したと報告している。ポルトガルによる紛争中最大の恒星とされる「ゴルディオンの結び目作戦」においても、ゲリラ部隊がポルトガル政府にとって脅威でないとみなせるほど弱体化させる作戦だったにも関わらず、ポルトガル政府や、一部の将校からはこの作戦は失敗であり、不十分な戦果しか挙げていないと考えられていた。
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