戦争の継続とは? わかりやすく解説

戦争の継続 (1969–72)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 03:38 UTC 版)

モザンビーク独立戦争」の記事における「戦争の継続 (196972)」の解説

1969年から実質的にポルトガル軍司令官はアントニオ・アウグスト・ドス・サントス(英語版将軍からカウルザ・デ・アリアガ(英語版准将交替していたが、正式な交替1970年3月となった。カウルザ・デ・アリアガ准将反乱勢力との戦闘においてより直接的な手法好みそれまで用いられてきたポルトガル通常兵力前線展開する際に少数原住民帯同させる戦術廃止した新しい司令官による戦略のもとで原住民役割減少していたにも関わらず1973年においてもなお空挺部隊のような特殊な作戦に関して原住民募集継続していた。こうしたカウルザ・デ・アリアガ准将による戦略一部アメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランドとの会談影響から生まれている。 1972年までには特にフレシャス(ポルトガル語版)(ポルトガル語: Frechas、「矢」の意)と呼ばれるアフリカ人部隊使っていたフランシスコ・ダ・コスタ・ゴメス(ポルトガル語版副司令官かが強い発言力持っていた。フレシャスの部隊アンゴラにおいても現在のポルトガル国家保安局ポルトガル語版)(DGS, ポルトガル語: Direcção Geral de Segurança)の前身である国防国際警察PIDE英語版)(ポルトガル語: Policia Internacional e de Defesa do Estado)の指揮下で活動していた。部隊地方部族民によって指揮され、特に追跡偵察対テロ作戦用いられた。コスタ・ゴメスはアフリカ人兵士人件費低く抑え、かつ地域住民との関係をよりよく形成できる主張した。これはベトナム戦争アメリカ軍用いたハーツ・アンド・マインズ(英語版) (英語: Hearts and Minds) と呼ばれる戦略に近いものだった。 これらのフレシャス部隊1974年カーネーション革命によってアリアガ准将罷免される直前までモザンビーク活動続けていた。これらの部隊革命結果ポルトガル独立認めた内戦状態至った際にもFRELIMO活動障害になり続けた。 以下に示すものはモザンビーク紛争およびポルトガル植民地戦争全体用いられ独特な特殊部隊である。 特殊部隊 (ポルトガル語: Grupos Especiais): 地方部族民による志願兵による準軍隊的な部隊であり、ポルトガル兵による支援を受ける。アンゴラ用いられたものと類似している。 空挺特殊部隊 (ポルトガル語: Grupos Especiais Pára-Quedistas): 空挺兵としての訓練積んだ黒人志願兵部隊戦闘追跡特殊部隊 (ポルトガル語: Grupos Especiais de Pisteiros de Combate): 追跡に関する訓練積んだ特殊部隊。 フレシャス(ポルトガル語: Flechas): 地方部族民や逃亡者による追跡偵察テロ活動専門とした特殊部隊。フレシャスは状況により敵から鹵獲した制服哨戒行動取ったり、拘束したゲリラ鹵獲した敵装備に応じて現金報酬支給されたりした。 1970年から1974年の期間を通じてFRELIMOその活動都市におけるテロ重点化しゲリラ戦激化させた。 地雷使用激増し、この時期ポルトガル人死傷者のうち3分の2地雷原因としたと言われている 地雷広範な使用並行して地雷恐怖症(英語: Mine psychosis)もポルトガル軍内に蔓延していた。地雷への恐怖と、それに結び付けられ敵軍を見ることなく死傷者発生させるフラストレーションとが軍の士気低下させ、さらに地雷恐怖症蔓延していった。 1970年6月10日ポルトガル陸軍によって大規模な反攻作戦が発せられた。「ゴルディオンの結び目作戦」(ポルトガル語: Operação Nó Górdio)と呼ばれる7か月に及ぶ作戦反乱側のキャンプモザンビーク北部タンザニア国境からの滲透ルート目標定めたのだった作戦には35,000名のポルトガル軍部隊参加し空挺部隊コマンド部隊海兵隊海軍フュージリア部隊のような一線部隊多く参加したポルトガル軍は、軽爆撃機ヘリコプター陸上戦力共同作戦長けていた。ポルトガル軍FRELIMOキャンプ対しポルトガル空軍ポルトガル語: Força Aérea Portuguesa, FAP)による爆撃アメリカ軍によって用いられ戦術であるクイック・エアボーン(ヘリボーン)を用いてゲリラ包囲殲滅した。これらの爆撃には同時に陸上部隊による重砲射撃併用された。また、ポルトガル軍騎兵部隊車輛による移動困難な地形における側面偵察や、ゲリラ部隊基地跡で捕獲されたり孤立したりしたゲリラ兵回収用いたポルトガル側は雨季開始FRELIMOによる攻勢重なった時点で、さらに兵站上の困難な問題突き当たったポルトガル兵の貧弱な装備問題になっており、それだけでなく空軍陸軍による共同行動困難さ問題になっていた。また、陸軍空軍による近接航空支援欠いていた。 ポルトガル軍死傷者FRELIMO死傷者上回る至って、軍に対す本国政府からのさらなる政治的介入招いたポルトガルは敵から651(より現実的な数値として440挙げているものもある)の戦死者と1,849の捕虜出し自軍から132ポルトガル人損失があったと報告している。アリアガ准将また、最初の2か月間に自らの部隊61ゲリラ基地165キャンプ破壊し40トン弾薬鹵獲したと報告している。ポルトガルによる紛争最大恒星とされるゴルディオンの結び目作戦」においても、ゲリラ部隊ポルトガル政府にとって脅威でないとみなせるほど弱体化させる作戦だったにも関わらずポルトガル政府や、一部将校からはこの作戦失敗であり、不十分な戦果しか挙げていないと考えられていた。

※この「戦争の継続 (1969–72)」の解説は、「モザンビーク独立戦争」の解説の一部です。
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