フュージリア
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「ロイヤル・フュージリアーズ連隊」の記事における「フュージリア」の解説
17世紀の前半、ヨーロッパでフリントロック式の銃が開発された。フリントロック式マスケット銃は”フュジ”(Fusil)と呼ばれ、これを装備した兵士は”フュジリエ”(Fusilier のフランス語読み)と呼ばれた。フリントロック式銃は従来のマッチロック式銃のように火の付いた火縄や火種を持ち歩く必要がないため、引火性の物質が近くにあっても安全であり、即時に射撃できる状態のまま負革で背負うことも出来るようになった。その様な理由から、行軍の際は大量の火薬を積んだ馬車を押し、敵が現われたら即時に応戦する必要がある、砲兵段列の護衛兵はフリントロック式銃を最初に配備された兵種の一つだった。フランスでは1671年に砲兵段列の護衛を任務とした、”近衛フュジリエ連隊”が編成された。 フリントロック式銃を優先配備されていた兵種としては、各歩兵連隊の中隊として編成され、擲弾の投擲を任務とした擲弾兵があった。彼らも手を空けるために銃を背負い、必要があれば背負った銃を迅速に構えるためることが要求されていた。擲弾兵は、当時一般的だった広いツバが付いた帽子(ハット)では擲弾を投げる際に邪魔になるため、独特の形状をした擲弾兵帽(grenadier cap)を着用していた。また、この帽子は背負った銃を取り出す際に負い革が引っかからないという利点もある。 フリントロック式銃の機関部。 プロイセンの擲弾兵帽。 イギリスでは1685年、国王となったジェームス2世の命令により、ボード・オブ・オードナンス(Board of Ordnance)の長官(Master-General of the Ordnance)であったダートマス卿ジョージ・レッグ(George Legge, 1st Baron Dartmouth)は砲兵段列を護衛する連隊を編成した。このオードナンス連隊(Ordnance Regimen)はロイヤル・フュージリア連隊(Royal Regiment of Fusilier/後の第7連隊)と名付けられた。また同年、スコットランドのマー伯爵連隊(The Earl of Mar's Regiment)が砲兵段列護衛隊に改編され、スコッツ・フュージリアーズ(The Scots Fusileers/後の第21連隊)となった。フュージリア連隊は、当時の一般的な戦列歩兵連隊には必ずあったパイク兵中隊と、多くの連隊に置かれていた擲弾兵中隊が無く、当時としては最新式のフリントロック式銃を全員が装備していた。この頃のフュージリア兵は、負い革で背負った銃を取り出す際邪魔にならないように、布製のキャップを着用していたが、やがて前述の擲弾兵帽を使用するようになる。 1688年にはフュージリア連隊がフリントロック式銃を装備する歩兵連隊と位置付けられるようになった。またこの年には、後にフュージリア連隊となるハーバート卿連隊(Lord Harber's Regiment/後の第23連隊)がウェールズで編成されている。この連隊の制服は当初オランダ軍と同じ青だった。 18世紀に入る頃にはマッチロック式銃は使われなくなり、全軍にフリントロック式銃が行渡るようになり、これらも”マスケット銃”と呼ばれるようになった。そして、初期のフュジが同時期のマッチロック式銃に比べて小型軽量であったことから、小型軽量の銃をフュジと呼ぶようになった。同じ頃、擲弾も実戦では使われなくなり、”擲弾兵中隊”は勇敢で体格が優れた兵士を集めた、戦術上重要な局面に投入される精鋭部隊へと変化した。 やがて、ヨーロッパ大陸の国々では各連隊の精鋭中隊を集めた”擲弾兵連隊”が編成されるようになったが、イギリスでは従来通り各連隊の精鋭中隊を”擲弾兵中隊”とし、連隊規模の精鋭部隊は”フュージリア連隊”と呼ぶようになった。これは、初期のフュージリア連隊が最新式装備を優先的に配備されたエリート部隊とされていたためである。その様なわけで、フュージリア連隊の制服は各連隊の擲弾兵中隊と共に、各時代に於ける他のヨーロッパ諸国の擲弾兵の服装に準じて変遷して行く。 一方、大陸では”フュージリア”は一般歩兵を意味するようになり、オーストリアやフランスでは歩兵連隊の擲弾兵中隊以外の中隊が”フュージリア中隊”と呼ばれるようになった。プロイセンでは逆に、住民の体格が劣る地域の出身者で構成された連隊を”フュージリア連隊”とした。プロイセンのフュージリア連隊では、兵士の小柄さが目立たないようにするために小型の銃を持たせ、背を高く見せるために擲弾兵帽を被らせていた。その後、軽歩兵を意味するようになった。 1714年にはハーバート卿連隊(Lord Harber's Regiment)がフュージリア兵連隊に改編され、ロイヤル・ウェルシュ・フュージリアーズ連隊(Royal Regiment of Welch Fusiliers)となった。これらのフュージリア連隊は、18世紀半ばに各連隊へ番号が割り当てられた際には、イングランドの連隊には”第7”、スコットランドの連隊には”第21”、ウェールズの連隊には”第23”が割り当てられている。 (右の写真)ロイヤル・ノースブリティッシュ・フュージリアーズ(第21連隊)兵士。”ロイヤル”なので折り返しがロイヤルブルー、”フュージリアー”なので帽子や剣は擲弾兵式のものを着用。当時、第5, 6, 20連隊はまだ”ロイヤル”にも”フュージリアー”にもなっていなかったので、一般歩兵の服装・装備だが(同年の第5, 6, 20連隊の服装については#統合された連隊の沿革を参照)、第7連隊は”ロイヤル・フュージリアーズ”なので、第21連隊と同様の服装だった。但し、この第21連隊はスコットランドの連隊なので帽章はシッスル勲章の星章だが、第7連隊はイングランドの連隊なのでガーター勲章の星章の中心に赤いバラを配したものだった。また、第21連隊が帽章に王冠を着けることを許されたのはこの後だが、第7連隊はこの頃既に帽章の上に王冠を着けていた。 1757年のプロイセン第35(フュージリア兵)連隊。新領土から集めた兵士の連隊。 1792年のプロイセンのフュージリア兵(軽歩兵)大隊。 19世紀に入るとヨーロッパ大陸諸国の”擲弾兵連隊”は名誉称号となっていたが、イギリスではこれに相当する名誉称号として功績のあった連隊に”フュージリア連隊”の名称を与えている。そして、フュージリア連隊は服装だけでなく、1826年以降は帽章も擲弾を模したものを使用するようになった、 1827年に第87連隊、1836年には第5連隊が称号を与えられ、それぞれ第87プリンス・オブ・ウェールズ・オウン・アイリッシュ・フュージリアーズ(87th The Prince of Wales's Own Irish Fusiliers)と第5(ノーサンバーランド)フュージリアーズ連隊(5th (Northumberland) Fusiliers Regiment)となった。また、フュージリアー連隊は擲弾兵中隊を置いていなかったが、1858年には他の歩兵連隊も一般中隊と擲弾兵中隊の区別を撤廃した。 1861年にインドで新設された4個の歩兵連隊は創立当初から”フュージリアーズ”称号が与えられ、そのうち3個連隊には”ロイヤル”の称号も付いており、第101歩兵連隊(ロイヤル・ベンガル・フュージリアーズ)(101st Regiment of Foot (Royal Bengal Fusiliers))、第102歩兵連隊(ロイヤル・マドラス・フュージリアーズ)(102nd Regiment of Foot (Royal Madras Fusiliers))、第103歩兵連隊(ロイヤル・ボンベイ・フュージリアーズ)(103rd Regiment of Foot (Royal Bombay Fusiliers))、第104歩兵連隊(ベンガル・フュージリアーズ)(104th Regiment of Foot (Bengal Fusiliers))と名付けられた。 1881年には第20連隊がランカシャー・フュージリアーズ(Lancashire Fusiliers)となり、第27と108連隊は統合に伴いロイヤル・イニスキリング・フュージリアーズ(Royal Inniskilling Fusiliers)となった。また同年には、既にフュージリア連隊だった第87連隊が第89連隊と統合されてプリンセス・ヴィクトリアーズ(アイリッシュ・フュージリアーズ)(Princess Victoria's (Royal Irish Fusiliers))となった。同様に、第101と104、第102と103連隊も統合され、共にアイルランドの連隊に改編されてロイヤル・マンスター・フュージリアーズ(Royal Munster Fusiliers/101, 104)及びロイヤル・ダブリン・フュージリアーズ(Royal Dublin Fusiliers/102, 103)となった。しかし、アイルランドの独立に伴い1922年に両連隊は廃止された。 1950年代末からイギリス陸軍では再編成が行なわれ、連隊の統合も盛んになり、1959年にロイヤル・スコッツ・フュージリアーズ(第21連隊)が他の連隊と統合されてロイヤル・ハイランド・フュージリアーズ(Royal Highland Fusiliers)となった。また、1963年、ロイヤル・ウォリックシャー連隊(第6連隊)がフュージリア旅団に組み入れられた。そして、これを機にロイヤル・ウォリックシャー・フュージリアーズとなった。 そして、1964年からは大型連隊の編成が始まり、前記(#沿革)のように4個あったイングランドのフュージリア連隊が統合されたのと同じ1968年、2個となっていたアイルランドのフュージリア連隊、ロイヤル・イニスキリング・フュージリアーズ(27, 108)とプリンセス・ヴィクトリアーズ(87, 89)は他の連隊と統合されてロイヤル・アイリシュ・レンジャー(Royal Irish Rangers)となった。同連隊は1992年、ロイヤル・アイリシュ連隊(Royal Irish Regiment)へ統合された。 各1個連隊となっていたスコットランド及びウェールズのフュージリア連隊は2006年に大型連隊へ統合され、それぞれロイヤル・ウェルシュ(Royal Welsh)第1大隊とロイヤル・スコットランド連隊第2大隊になった。 19世紀からフュージリアの正装用の帽子として使用されてきた、擲弾の帽章が付いたベアスキン帽は、”クィーンズ師団ミンデンバンド”に受け継がれている。 1776年の第40連隊擲弾兵。 1793年の第87連隊擲弾兵。フュージリア連隊になる前。
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