連合国遠征軍最高司令官
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「ドワイト・D・アイゼンハワー」の記事における「連合国遠征軍最高司令官」の解説
イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは、ヨーロッパ反攻作戦における連合国遠征軍最高司令官にアイゼンハワーではなく陸軍参謀総長のマーシャル大将を希望し、大統領のルーズベルトもそれに傾いていたが、統合参謀本部のメンバーである大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ大将、アメリカ合衆国艦隊司令長官兼アメリカ海軍作戦部長アーネスト・キング大将、陸軍航空軍総司令官ヘンリー・アーノルド大将は、統合参謀本部にマーシャルは不可欠であるとして反対し、ルーズベルトはカイロ会談、テヘラン会談を終えて帰国する直前に、アイゼンハワーを連合国遠征軍最高司令官とすることに決定した。 連合国遠征軍最高司令部はヨーロッパ反攻作戦として「オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)」の計画を行い、アイゼンハワーはその計画の実行を1944年6月6日(D-デイ)とする決断を行った。上陸作戦は成功し、その後も順調に戦線を拡大した。 12月20日、アイゼンハワーは陸軍元帥に昇進した。1920年に少佐になってから中佐に昇進するまで16年を要し、第二次世界大戦勃発時には一介の中佐にすぎなかったが、その後わずか5年3ヶ月で元帥に昇進した(1941年3月大佐昇進、同年9月准将昇進、1942年3月少将昇進、同年11月中将昇進、1944年大将昇進)。これはアメリカ陸軍史上空前の記録であった。1945年末までヨーロッパ戦線における450万人の連合軍全軍の最高司令官であった。 アイゼンハワーはこれらの地位でリーダーシップと外交の才能を示した。アイゼンハワーはオマル・ブラッドリー将軍やパットン将軍のような前線の指揮官の尊敬を勝ち取り、チャーチルやモントゴメリー、シャルル・ド・ゴールのような一筋縄ではいかない協力者と巧みに取り引きした。戦略上、チャーチルおよびモントゴメリーとは基本的に相容れないものがあったが、彼らとの関係を転覆することはなかった。またアイゼンハワーは、ゲオルギー・ジューコフのようなソ連の司令官や、しばしばヨシフ・スターリンと直接交渉することさえあったが、それはルーズベルト大統領が彼に対して信頼を抱いていたからであり、ソ連からもアイゼンハワーは高く評価されて勝利勲章を贈られた。彼はサインに「アイク」と署名することを好み、一般の兵士たちにも気を配って不正を根絶しようとした。このため一般将兵からも高い人気を得、彼らは後の大統領選挙においてもアイゼンハワーを支持することになる。 1945年5月8日のドイツの降伏後、アイゼンハワーはフランクフルトを本拠に、アメリカによる占領地帯の軍政長官に就任したものの、ほどなくパットンにこの地位を委任した。彼は1945年11月に陸軍参謀総長に任命され、1948年2月まで在任した。 冷戦中の1950年12月には北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官になった。元帥であるアイゼンハワーは終身現役陸軍軍人に留まる資格を有していたが、大統領選挙に当たって1952年7月にアメリカ陸軍を退役している。そして大統領を2期8年務めた後、次のケネディ大統領はただちにアイゼンハワーを「1944年12月20日に溯って現役の陸軍元帥に再任」している(「現役復帰」ではない)。
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