指揮権問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:02 UTC 版)
太平洋戦線は陸海空3軍の緊密な連携が必要となることから、連合国遠征軍最高司令官(Supreme Commander, Allied Expeditionary Force、略称:SCAEF)のドワイト・D・アイゼンハワー元帥が統括したヨーロッパ戦線と異なり、陸軍のマッカーサーが南西太平洋方面の連合軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官(Supreme Commander of Allied Forces in the Southwest Pacific Area 略称:SWPA)、海軍のチェスター・ニミッツ元帥が太平洋中央の連合軍を指揮するアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官(Commander in Chief, United States Pacific Fleet and Commander in Chief, Pacific Ocean Areas. 略称:CINCPAC-CINCPOA)の二元統括となっていた。そして日本本土は従来の作戦区域からすればニミッツの担当であったが、マッカーサーはこれを不満に思っており「我々は現在、人為的な区分境界線及び指揮機構によって、極めて不利な状況下にあるので、対日戦争の究極の成功は、もっとも重大な危機にある」という意見書をアメリカ陸軍参謀総長に送っている。マッカーサーの要望は、太平洋戦域の全陸上兵力を自分の指揮下とし、海軍をニミッツの指揮下とすることであった。このマッカーサーの要望は海軍からの抵抗もあったが、フランクリン・ルーズベルト大統領の政治的決断によって、ほぼマッカーサーの要望通り、西太平洋方面軍と太平洋方面軍を統合し、全陸軍(海兵隊を含む)をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍をカーチス・ルメイ少将がそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取ると決まった。 しかし1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、マッカーサーは要望をエスカレートさせた。マッカーサーは海軍に対して日本本土進攻では海上援護任務のみを行い、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきた。当然、ジェームズ・フォレスタル海軍長官やニミッツは激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ」「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局、この問題はマッカーサーとニミッツが直接協議することとなって、マッカーサーはこの要求を取り下げた。 ドイツが降伏し、敵がいなくなったヨーロッパ戦線の指揮官らはこぞってマッカーサーにラブコールを送り、ダウンフォール作戦の従軍を希望した。なかでもバルジの戦いなどで戦功を重ねていた第3軍司令官ジョージ・パットン大将などは「師団長に降格してもいいから作戦に参戦させてくれ」と申し出ている。しかし、彼らの上司であるアイゼンハワーと違い部下の活躍を好まなかったマッカーサーは、ヨーロッパ戦線の指揮官たちは階級が高くなりすぎているとパットンらの申し出を断り、第1軍司令官コートニー・ホッジス大将らごく一部を自分の指揮下に置くこととした。ただし、部下を信頼して作戦を各軍団指揮官に一任していたアイゼンハワーと異なり、自分を軍事の天才と自負していたマッカーサーは作戦の細かいところまで介入していたため、ヨーロッパ戦線では軍団指揮官であった将軍らに「1個の部隊指揮官」としてきてほしいと告げていた。アイゼンハワーとウエストポイント陸軍士官学校の同期生で親友の第12軍集団(英語版)司令官オマール・ブラッドレー大将も太平洋戦線での従軍を希望していたが、マッカーサーの「1個の部隊指揮官」条件発言を聞いたアイゼンハワーが激怒し、ブラッドレーは太平洋戦線行きを諦めざるを得なかった。一方でマッカーサーも、アイゼンハワーへの対抗意識からか、太平洋戦線の自分の部下の指揮官たちがヨーロッパ戦線のアイゼンハワーの部下の指揮官よりは優秀であると匂わせる発言をしたり、「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった」「北アフリカ戦線に送られたアメリカ軍の戦力を自分に与えられていたら3ヶ月でフィリピンを奪還できた」などと現実を無視した批判を行うなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた。
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