指揮権の危機
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「指揮権の危機」の解説
1944年2月から9月にかけてのレオン・デグレルの最大の不満は、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに要求していたにもかかわらず、デグレル自身が「ヴァロニェン」旅団の指揮官として公式に認知されておらず、単に「ワロン人の指導者」(Führer der Wallonen)とだけ見なされていることであった。1944年2月のコルスン包囲戦から生還した後、デグレルは旅団をより大きな部隊へ増強することを欲したが、それは士官学校で軍事教育を受けていない一介のSS少佐が指揮可能なものではなかった。 当時、親衛隊本部長ゴットロープ・ベルガーと親衛隊作戦本部長ハンス・ユットナーはデグレルに対し、ベルギーの高級職業軍人が「ヴァロニェン」旅団で勤務する用意が出来ないのであればドイツ人を「ヴァロニェン」旅団の指揮官に据えることを明らかにした。同時に、ベルリン当局はすべての外国人部隊(「ヴァロニェン」旅団を含む)をドイツ人の指揮下に置くことを決定した。しかし、ドイツ側のこの方針は第373ワロン歩兵大隊が1943年6月に武装親衛隊へ移籍した際の約束(部隊の指揮権はベルギー人が掌握)に反していた。 これらドイツ側の思惑に対抗するため、1944年5月からデグレルはプレンツラウ(Prenzlau)にあるベルギー軍将校専用収容所(Offizierslager IIA)に足を運び、「ヴァロニェン」の指揮権をドイツ側から守るに足るベルギーの高級職業軍人を探し始めていた。そして、デグレルの勧誘に応じた次の5名のベルギー高級職業軍人が捕虜収容所から釈放された。 ランベール・シャルドム将軍(General Lambert Chardome) ロン大佐(Colonel Long) フランキグヌール大佐(Colonel Frankignoul) フランス・エレボ少佐(Major Frans Hellebaut)(B.E.M.) レオン・ラカイ上級大尉(Capt-Cdt. Léon Lakaie) シャルドム将軍の入隊承諾は新聞に掲載され、1944年6月25日、デグレルはベルリンのベルリン・オリンピアシュタディオン近隣の国立競技場(Reichssportfeld)で開催された会議の場で、シャルドム将軍が突撃旅団に志願したことを宣言した。かくしてベルギーの高級職業軍人の入隊承諾を取り付けたことにより、「ヴァロニェン」の指揮権にドイツ側が干渉することは無くなると思われた。 ところが、フランス・エレボ少佐とレオン・ラカイ上級大尉は実際に入隊したものの、シャルドム将軍、ロン大佐、フランキグヌール大佐は態度を翻し、突撃旅団への入隊を拒否してプレンツラウの収容所に戻った。さらに、ドイツ側は既にポーランド・東クラカウ地区の警察指導者カール・ブルクSS上級大佐(SS-Obf. Karl Burk)を第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」の指揮官として送り込む準備を整えていた(1944年7月8日付のヒムラーの秘密文書によると、ブルクは1944年6月21日から「ヴァロニェン」旅団の指揮官とされていた)。 1944年7月、レジスタンスに暗殺された弟の葬儀に出席するためベルギーに戻っていたデグレルは、これらの事実を知るとベルリンに向かい、ブルクが「ヴァロニェン」の指揮官の座から退かない限りドイツ国内で部下の前に姿を現さないことを主張した。その後、デグレルは前述したようにエストニアに派遣された「ヴァロニェン」戦闘団と合流して活躍し、ナチス上層部への接近を深めた。とりわけデグレルは第三帝国総統アドルフ・ヒトラーに「私が息子を持つのであれば、貴君のような者であってほしい」(Hätte ich einen Sohn, ich wünschte er wäre wie Sie!)と言わしめるほどヒトラーに気に入られ、ベルガーたちの計画(外国人部隊をドイツ人の指揮下に置くこと)を、少なくとも「ヴァロニェン」に限っては頓挫させた。
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