連合国軍被占領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 01:33 UTC 版)
詳細は「連合国軍占領下の日本」を参照 第二次世界大戦で敗れた日本は、それまで領土としていた、台湾・朝鮮・南樺太・南洋群島・千島列島・歯舞群島・色丹島を失った。このうち、千島列島および歯舞群島・色丹島については、各種の議論があり、1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約で平和的に獲得されて日本の領土となったため、日本は千島列島全島の領土権を主張できるとの考え方もあるが、日本政府は、千島列島のうち、国後島と択捉島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞・色丹の2島は北海道に属すると説明している。また、ごく一部に南樺太の領有権を主張する動きもある。 1945年(昭和20年)8月15日から1952年(昭和27年)4月27日までの7年間にわたって、有史以来初めて外国(アメリカ軍のGHQ)に占領され、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義者であったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された。東久邇宮稔彦王内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮内閣は戦時中の政治の継続を行っただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。なおこの内閣はわずか54日間に終わったという、戦前戦後含め憲政史上最短任期の内閣としても記録されている。 アメリカ軍の占領下で、幣原喜重郎首相の幣原内閣、次いで吉田茂首相の吉田内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また、旧治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、第二次世界大戦に加担した者の公職からの追放及び被選挙権の停止措置が採られた。首相の座が目前の位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相(現在の文科相)であったことを理由に、政治的活動が制約された。また、1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。 連合国 (Allies) の日本占領は、事実上のアメリカ軍の単独占領であったが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行され、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が拒否し、本土は統一的なアメリカの占領下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、ウィンストン・チャーチル元イギリス首相が「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。 日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)に、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆使用の提案など強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったとされるが、全ての法令、文書は占領軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。検閲は隠匿され、戦前のような伏せ字による出版ではなく、書き直しが命じられた。1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布・1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印・1952年(昭和27年)4月28日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま駐留軍と称して残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残され、在日米軍として駐留が継続された。 GHQが起草し占領下で制定された(=押し付け憲法論、憲法無効論も参照)、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した常識的な憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた三大原則でなりたっている。日米安保条約や自衛隊(実質上、旧日本軍の役割を継承)が日本国憲法の平和主義に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。また、この憲法によってそれまでの「25歳以上の男子のみ」から「20歳以上の日本国民」に参政権が拡大され、女性の選挙権が初めて容認された。 戦争や米軍の無差別爆撃によって国内経済は壊滅し、本土空襲の甚大な被害も重なり国民生活は混迷の極みにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは日本占領当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、「極東のスイス(=永世中立国)」を建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中国大陸で蔣介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を行ったところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかしこの頃、国鉄でも大規模な整理解雇が吹き荒れ、下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行われ、小中高及び大学の共産主義的教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風(赤狩り)と軌を一にしていた。 文化面においては、日本映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。また、ラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やポピュラー音楽も急速に流入した(当時は一般にポピュラー音楽はみな「ジャズ」と呼ばれた)。一方、国語については1946年(昭和21年)の現代かなづかい・当用漢字の制定、新聞の検閲などが行われ、制限されることとなった。
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