連合国軍被占領期終結から冷戦終結まで
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「日本近代史」の記事における「連合国軍被占領期終結から冷戦終結まで」の解説
アメリカ軍を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領が終わり、1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)発効に伴い主権回復を果たした後の冷戦時代も、日本はアメリカを盟主とする資本主義・西側諸国に与して、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・東側諸国に対抗した。 西側諸国の盟主であるアメリカにとって最前線の重要拠点となった日本は、朝鮮戦争では海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させるとともに、軍需の有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要により、奇跡的な速度で経済が復興した。続くベトナム戦争でも特需が起きた。さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。1964年(昭和39年)の東海道新幹線の開業と東京オリンピック(1回目)の開会、1970年(昭和45年)の大阪万博の開催によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わった。 この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から事実上の再軍備を行い、国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に保安隊、現在の自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、アメリカに朝鮮戦争の戦費を終戦処理費の名目で負担させられたり、米軍駐留に膨大な資金負担を要求されてきたことは見過ごされがちである。沖縄返還の時も日本政府はアメリカに対し多額の資金を提供した。日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、米軍関係者犯罪時の裁判や事故などを巡ってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした問題がしばしば起こった。核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。また、米軍駐留に対する日本の資金負担は、思いやり予算という形で現在も行われている。 急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第一次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は「団塊の世代」と呼ばれており、膨大な人口を抱えているが、地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。高度経済成長期には、佐藤栄作など1900年代生まれの世代が政治・経済のトップに立ち、団塊世代を都市部の労働力に引き入れた。 1965年(昭和40年)にはベトナム戦争が勃発し、ベトナム戦争への加担に反対する青年は学生運動などで反対した。しかし、学生運動の過激派はあさま山荘事件など内ゲバによって潰滅した。その影響もあって、都市部の市民の多くは与党支持者になるか、支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許し、「実力を行使して要求を勝ち取る」運動の衰亡を招いた。 高度経済成長の中期から末期は、公害の激化や社会問題の深刻となる中で、消費者や地域住民という立場からなされる新しい市民運動が盛り上がった時期でもある。社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京都の美濃部亮吉を筆頭に、京都府、大阪府、神奈川県などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都府では蜷川虎三知事が多選を果たした。しかし後には、社共共闘の潰滅や保守の盛り返しによって、次々と保守体制に回帰した。 一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行われたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。 大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。しかし1970年(昭和45年)ころには、日本人の貧しさはかなり解消され、高度経済成長は一段落した。オイルショックを境に、高度成長時代は終わり、低成長時代へと変化した。しかし輸出依存の体質による円高と貿易黒字が問題視されるようになり、プラザ合意をへて内需拡大政策のもとでバブル景気に入った。
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