高度経済成長
高度成長時代
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1959年(昭和34年)後半からは岩戸景気の影響で貨物輸送量が伸び、1961年(昭和36年)夏には滞貨を擁する事態となり、この年度の貨物輸送量は521万トン、旅客は319万人に達した。 このため、1961年(昭和36年)10月1日ダイヤ改正では、連絡船の機関整備のための休航から休航までの間隔を延ばして運航数を増やす手法で、客貨便5往復、貨物便14往復計19往復に臨時便2往復と増発した。またこの改正では、函館 - 旭川間に北海道初の特急「おおぞら」1往復が新設され、上野発着の常磐線経由東北本線特急「はつかり」、新設の大阪発着の日本海縦貫線特急「白鳥」とを、青函連絡船の深夜便を介して接続することとなり、下り1便では4時間25分、上り2便では4時間30分運航と、わずかながらスピードアップを果たした。 1964年(昭和39年)5月10日には津軽丸、8月12日には 八甲田丸が就航し、本船は1964年(昭和39年)8月31日、沈没を免れた洞爺丸型3隻の中では最も早く終航を迎えた。
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高度成長時代
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「小田急電鉄の鉄道車両」の記事における「高度成長時代」の解説
この頃から通勤客の増加が著しかったため、通勤車両の増備をそれまで以上のペースで行う必要が生じた。しかし、全車電動車方式は確かに高性能ではあるものの、製作費や保守費用などはそれほど低くならないことが判明したため、1959年にはそれまでの車両と比較して経済性の高い車両として2400形を登場させた。この車両は "High Economical Car" の頭文字をとって「HE車」と呼ばれ、電動車の全長を19mに伸ばし、機器を集中的に配置することで粘着重量を稼ぐ一方で、制御車の全長を16m弱に縮めることで、MT同数ながら2200形並みの性能と編成長を実現した。 その後も通勤輸送量は増加の一途をたどり、1961年に6両編成の運行を開始したもののたちまち飽和する状況となった。1963年から朝ラッシュ時には平行ダイヤが導入されたが、さらに抜本的な輸送体系を立てることとし、近郊区間は大型6両編成、長距離列車は大型8両編成に増強することになった。これを受けて、1964年に電力回生ブレーキを装備し、車体を大型化した通勤車両2600形が "New High Economical Car" の頭文字をとった「NHE車」として登場した。当初、ホーム延伸工事が終了していなかったために2600形は5両固定編成で運行され、ホーム延伸終了とともに順次6両固定編成になった。2400形は順次急行などの優等列車に転用されたが、湯本急行は箱根登山鉄道線内の車両限界の関係から、2400形が主力車両となっていった。また、この頃になると開業当初からの小型車両では通勤輸送には利用できなくなっていたため、旧型車両の電装品を流用して車体を2600形と同様の全長20mに大型化した4000形も導入された。 その一方で、1960年に箱根ロープウェイが開業したことにより箱根への観光客が急増していたため、1963年には前面展望室を設けた特急車両として3100形NSE車を導入した。NSE車の投入に伴い、1963年には特急の所要時間は新宿から小田原まで62分と、分離発足時の目標であった「新宿から小田原まで60分」にあと一歩というところまで到達した。他方、戦前から続けられた貨物輸送は、1964年に砂利採取が禁止されたことに伴い扱い量が激減、車扱貨物は伊勢原での濱田製麦と足柄の日本専売公社の輸送だけとなった。1966年には向ヶ丘遊園モノレール線の開業に伴い、日本ロッキードから試験車を譲り受けて500形として運行開始した。1968年には御殿場線電化に伴いSE車を5両連接に短縮して充当することになり、キハ5000形は関東鉄道に売却された。 しかし、通勤客の増加予測を完全に見誤ってしまったため、1969年には急行用の大型車両として5000形を導入して大型8両編成の運行を開始したものの、1964年に大改良が完了したばかりの新宿駅は再度1972年から大改良工事を強いられることになってしまった。これ以後、通勤輸送対策は完全に後手に回ってしまうことになる。この1972年には、特急の所要時間は新宿から小田原まで66分にスピードダウンを余儀なくされた。1977年からは急行が大型10両編成の運行を開始、1978年からは準急も地下鉄への相互乗り入れと同時に大型10両編成での運行となったが、この地下鉄直通のために9000形が製造された。9000形は地下鉄線内で見劣りしないことを目指してモデルチェンジした車両で、界磁チョッパ制御を採用し、1973年にはローレル賞を受賞した。1978年からは、大型車の6両固定編成を補うための車両として5200形の増備が始まった。 東海道本線で走行試験を行う7000形LSE車(1982年12月) 8000形電車 1980年には、SE車が使用されている特急列車を長編成化するために7000形LSE車が登場した。1982年12月には、LSE車1編成が国鉄に貸し出され、東海道本線で走行試験を行った。私鉄の車両が国鉄で走行試験を行った事例は、国鉄時代においてはSE車とLSE車だけである。 1981年にはようやく新宿駅の大改良工事が終了したが、この年の7月で1800形は全廃された。また、急行が10両編成化された後も湯本急行は2400形4両編成のままであったが、輸送力確保において問題があったため、箱根登山鉄道線へ大型車の乗り入れを実現すべく改良工事が行われ、箱根登山鉄道線の改良工事が終了した1982年から湯本急行は大型6両編成が基本となった。 1982年12月には「小田急線内の全ての種別に使用でき、高性能車の全ての形式と連結が可能で、箱根登山鉄道線への乗り入れも可能な新形式」として8000形が登場した。これと入れ替わるように2200形・2220形・2300形・2320形は1982年から廃車が開始され、1984年までに全廃された。また、1984年1月限りで定期貨物輸送は全廃され、同年3月には小荷物・手荷物輸送も廃止となり、社用品輸送もトラック輸送に変更されたことから荷物電車が全廃となった。 1985年からは大型車で唯一の非冷房・吊り掛け駆動車両であった4000形を冷房化・高性能化することになったが、これには高性能車ながら非冷房の中型車であった2400形の電動機を転用することになり、2400形の廃車が開始された。1986年には2600形のサハ2762を使用してVVVFインバータ制御の試験が行われたが、この実績をもとに小田急では初のオールステンレス車両である1000形がVVVFインバータ制御車として登場、1988年3月から開始された各駅停車8両編成化運用に投入された。
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