べっし‐どうざん【別子銅山】
別子銅山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/18 15:09 UTC 版)
別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市にあった銅山。総産銅量は日本第2位の約65万トン。日本三大銅山の一つ。
- ^ a b c 新居浜産業経済 史新居浜市発行
- ^ 愛媛県別子銅山における煙害(1900年頃)|第二次世界大戦前の大気汚染(~1944年:昭和19年以前)|日本の大気汚染の歴史|大気環境の情報館|大気環境・ぜん息などの情報館|独立行政法人環境再生保全機構
- ^ 新居浜産業経済史 新居浜市発行
- ^ 新居浜市史
- ^ 愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 近代 下』愛媛県、1988年2月29日 。
- ^ “別子銅山 近代化産業遺産 八十八か所 ふれあい めぐりあい ガイドブック ~マインからマインドへ~”. www.besshi.net. 2022年8月14日閲覧。
- ^ TBS. “百年の計、我にあり”. TBS$B%F%l%S(B. 2022年6月13日閲覧。
別子銅山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:14 UTC 版)
住友理兵衛友以の孫にあたる吉左衛門友芳の代には、1691年に伊予の別子銅山の開堀に着手。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にもわたって住友の重要な事業の柱となった。今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言ってよく、事実、住友家の歴史の中では、この四世吉左衛門友芳をもって、「住友家中興の祖」としている。 明治時代に入ってからは文化事業にも関わり、十五代目吉左衛門友純(ともいと)は大阪府立中之島図書館の建物を寄贈。その子十六代目吉左衛門友成はアララギ派の歌人でもあり、斎藤茂吉、川田順(住友本社の重役でもあった)とも交流があった。 なお、住友家当主が「吉左衛門」を名乗るようになったのは、三代当主住友友信(友以の子)からである。
※この「別子銅山」の解説は、「住友家」の解説の一部です。
「別子銅山」を含む「住友家」の記事については、「住友家」の概要を参照ください。
別子銅山と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 別子銅山のページへのリンク