別子銅山と川之江代官所とは? わかりやすく解説

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別子銅山と川之江代官所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 07:35 UTC 版)

川之江代官所」の記事における「別子銅山と川之江代官所」の解説

別子銅山#沿革」も参照 宇摩郡南部別子山には別子銅山存在する別子銅山元禄初年発見され元禄4年1691年)に泉屋住友家4代目住友吉左衛門)によって開坑された(銅山歴史の上では「旧別子」と呼ばれる地域で、銅山越南側の「嶺南上部地区にあたる)。泉屋請負期間は当初5年であったが、勘定奉行荻原重秀後援のもと、永代稼行認められた。 別子山と峠(銅山越)の反対側に位置する西条藩新居郡立川山には、寛永年間にすでに開かれていた立川銅山があり、両者は同じ鉱脈であるために紛争生じた西条藩幕府領領分争い性格を持つ紛争幕府評定所持ち込まれ3年越し吟味結果境界紛争元禄10年1697年)に別子勝利となった。 産初期には天満浦四国中央市土居町天満)まで運ばれ荷積みされていたが、出運搬路の問題など住友幕府西条藩折衝重ねられることとなった元禄15年1702年)、別子山から立川山を経由して新居浜浦(西条藩領)への運搬路が認められた。 元禄16年1703年)には宇摩郡八日市陣屋四国中央市土居町津根)で5000石を知行していた一柳直増播磨国移し知行地収公した。これには運搬路・薪炭補給地を確保する目的があった。宝永元年1704年)には、立川銅山一帯から新居浜浦への通路にあたる地域は、薪炭資源運搬用地として必要であるとして、西条藩との交渉の上幕府領移された(新居浜自体西条藩領)。替地として宇摩郡平地石高では、幕府側に移されの2倍以上)が西条藩移された。

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