別子銅山と川之江代官所
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「別子銅山#沿革」も参照 宇摩郡南部の別子山には別子銅山が存在する。別子銅山は元禄初年に発見され、元禄4年(1691年)に泉屋(住友家・4代目住友吉左衛門)によって開坑された(銅山の歴史の上では「旧別子」と呼ばれる地域で、銅山越南側の「嶺南上部」地区にあたる)。泉屋の請負期間は当初5年間であったが、勘定奉行荻原重秀の後援のもと、永代稼行が認められた。 別子山と峠(銅山越)の反対側に位置する西条藩領新居郡立川山には、寛永年間にすでに開かれていた立川銅山があり、両者は同じ鉱脈であるために紛争が生じた。西条藩と幕府領の領分争いの性格を持つ紛争は幕府評定所に持ち込まれ、3年越しの吟味の結果、境界紛争は元禄10年(1697年)に別子の勝利となった。 産銅は初期には天満浦(四国中央市土居町天満)まで運ばれて荷積みされていたが、出銅運搬路の問題などで住友・幕府・西条藩の折衝が重ねられることとなった。元禄15年(1702年)、別子山から立川山を経由して新居浜浦(西条藩領)への運搬路が認められた。 元禄16年(1703年)には宇摩郡八日市陣屋(四国中央市土居町津根)で5000石を知行していた一柳直増を播磨国に移し、知行地を収公した。これには運搬路・薪炭補給地を確保する目的があった。宝永元年(1704年)には、立川銅山一帯から新居浜浦への通路にあたる地域は、薪炭資源・運搬用地として必要であるとして、西条藩との交渉の上で幕府領に移された(新居浜浦自体は西条藩領)。替地として宇摩郡の平地の村(石高では、幕府側に移された村の2倍以上)が西条藩に移された。
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