別失八里等処行尚書省の設置
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「別失八里等処行尚書省」の記事における「別失八里等処行尚書省の設置」の解説
第2代皇帝オゴデイの死後、帝位をめぐって内部対立が続いたが、1251年にモンケが第4代皇帝として即位した。モンケは征服地の管理についてはオゴデイ時期の方針を引き継ぎ、華北・中央アジア・イランの3地域に大きく分割して統治しようとしていた。『世界征服者史』には以下のように記されている。 [モンケは]諸税の査定(taqrif-iamvl)と人々の名前の登録のために、知事・軍政官・書記たちを任命した。第5気候帯の起点であるアム河の岸から第1気候帯にあたる漢地の最遠点に至るまでの東方諸国を、大宰相のマフムード・ヤラワチとその真の相続者マスウード・ベクとに従前通り委任した。……マーワラーアンナフル、トルキスタン、オトラル、ウイグル諸都市、コータン、カシュガル、ジャンド、ホラズム、フェルガナはマスウード・ベクに[委任した]。 — 『世界征服者史』 この記述に対応するように、『元史』巻3憲宗本紀には「憲宗の初年……ノガイ(訥懐)・タラカイ(塔剌海)・マスウード・ベク(麻速忽)らを別失八里等処行尚書省事に充て、アブドゥッラー(暗都剌)・ウスン(兀尊)・アフマド(阿合馬)・イティシャー(也的沙)にこれを助けしむ(元年辛亥……以訥懐・塔剌海・麻速忽等充別失八里等処行尚書省事、暗都剌・兀尊・阿合馬・也的沙佐之)」と記されており、この記述から漢文史料上ではモンゴル帝国の中央アジア統治機関が「別失八里等処行尚書省」と呼称されていたことが分かる。 また、モンケの時期には既に本籍地(モンゴル語では「根源」を意味するフジャウルと呼ばれ、漢文史料では主に「根脚」と意訳される)を離れて活動する商人が税を納めていないことが問題視されており、本籍地に帰還するか移住先で税を納めるよう聖旨(ジャルリク)が出されたことが記録されている。ここでも、基準となっているのはオゴデイ時代の人口調査に基づく「本籍=フジャウル」であり、その課税単位は「onluq(十戸)」や「yuzluq(百戸)」などであったことが現存するウイグル文字文書から窺える。
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